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05.穏やかな日々。

 ゴトン、と燃え盛る薪が転がる音が暖炉から聴こえてくる。森の中だから薪はいくらでも手に入る。木材を薪に加工するのも楽なのだが、持ち運びがそれなりにしんどい。そこまで腕力がある方ではない。だから運んでもらうだけでもかなり助かる。

 薪は風呂に入る時だって必要だし、それに食材を調理する時にだって使える。

 暖炉に火をつけているからぼんやりと部屋に光が灯る。

 街にはガラスでできた窓があるそうだが、残念ながらそんな金はなかった。いや、あったとしても窓ガラスを設置しなかっただろう。お金に余裕がある暮らしというものを、あえてしようと思わなかった。そんなことをしていたら、きっと、『人間に窓を割られる』。だから、いいのだ。窓ガラスがなくとも。だけど、やはり窓がないと暗くなってしまう。ドアは立てつけが悪いから、そこから光が漏れることもあるが、夜になればなるほど、どっぷりと部屋は闇に浸かってしまう。だから、一日中暖炉をフル活用していることが多い。そのためには薪は必要なのだ。でも、その仄かな光に当たりながら、この沈黙に満ちた森にいると、どうしても思うことがある。

 これじゃあまるで、ひっそりとこの世界の片隅で生きているようだった。誰も彼もから姿を隠して世を忍ぶ。俗世間から切り離された生き方。あまりにも寂寥感が伴う生き方だけれど、疲れてしまった。誰かと一緒にいると、必ず摩擦が生まれる。どんどん、どんどん。他人と接していくうちに自分という存在が磨り減っていくような感覚に陥る。それでいいのだと、何度独白したことだろう。何度、言い聞かせてきたことだろう。

 それでも何とか保ててきたのは、温かさというものを知らなかったからだ。人間という温もりを知らなかったからだ。知らないものだったら耐えることができる。生まれてこの方、親とゆっくり過ごしたことすらなかった私だ。誰かと一緒にいて、心をほぐされた経験なんてもしかしたらないかもしれない。物心ついてから、ほっとするようなことなどなかった。あるのは自分に取り入ろうとする汚い大人の姿ぐらいなもので。親がどこかに行ってしまうと、そんな連中はすぐさま煙のようにたち消えてしまった。私を、私として認識してくれるものなど、誰もいなかった。

 ああ、それなのに。どうして私はこんなことをしているのだろう。あまりにも現実離れしすぎて、いっそ、陳腐にすら思える。ごっこ遊びのようだ。まるで、人形遊びをしているかのように、幸福に満ちた家庭を演じているようだ。自分に過ぎた夢は、醒めた時の落差がひどい。だから、全てを振り払ってこの家から出ていきたい衝動にかられるけれど、抗いきれない何かがあった。

「……おいしい」

 ほろり、と優しい声音で出てきてしまったその言葉を、もうなかったことにはできない。こんなことで、ウォルクの評価を下げたくない。食べた一口目にそんな言葉を発して、それからスプーンをすくう手が止まらないなんて最悪な事態、もう、今すぐ記憶から消してしまいたい。

 ――あれから、月が闇夜に顔を出し入れしてから、七回は過ぎた頃だろうか。些か数え間違いがあるだろう、それぐらい。そう、それぐらい大雑把に数えてしまうほどには、この非日常が日常という定義におちついてしまった。失態。そんなことの葉が頭に浮かんでしまうのはおかしいのだろうか。こんなことを想ってしまう段階で、なにやらしてやられたような気さえする。そんなもの、勝手な被害妄想にとりつかれているに相違ないというのに。

 私は、毎日、毎日、自分で料理を作る。最初は手間取ったりもしたが、それなりに楽しみもあった。これからどんどん料理を覚えていこうという気持ちもあった。だけれど、ずっと料理をしていると、それが作業になってしまう。皮肉にも、調理する腕が上がるほどに、感情をこめずに作ってしまう。自分しか食わないのだから、手抜きを覚える。調理の簡略化はどんどん進んでいき、ついには料理を作らない日だってできてくる。

 食べ物の好き嫌いはハッキリあるわけではないが、今日はこれが食べたいぐらいの感想ぐらいはでる。他人がいる時はそうでないものが献立として並べられるのは当たり前。自分ひとりの時ならば、好き勝手できる。そういう利点はあるけれど、自分が一番おいしいもの、おいしい味付けを追求していった結果、いつも同じ料理ができあがってしまう。

 味付けを変え、材料を変え、とにかく飽きないよう、飽きないよう、作っても、最終的に、自らの決めた調理法へと戻ってきてしまう。自分なりのおいしさの極致に腰を落ち着けてしまうのだ。

 他人が作る料理は味付けがかなり異なる。同じ料理であっても、同じ材料であっても、分量の違いだけで味わいかたが変わってくる。自分の料理こそが、自分の舌にあった最高の料理だと思っていた。だけど、それは過ちだった。おいしい。ほんとうにおいしい。頬が落ちるほどだった。

 シチュー。

 まるで雪原のように白いそれは、まろやかで優しい。ねっとりとした感触でありながら、まるで身体に染みわたるような温かさ。少し、味付けがこゆい。パンが欲しくなるこゆさだ。まさか、それすらも計算に入れた料理だとしたら頭が下がる。それとも、このぐらいが好みなのだろうか。私は、どちらかというと薄味の方がいい。別に健康に気を遣っているわけではない。ただ、薄味の方がより、素材の味を確かめられるからだ。味がこゆいどころか、刺激物にも匹敵するような辛さを持つ草もこの辺の森には生えている。

 剣術にはそこらのぼんくらに後れを取るようなことはないが、識別系の魔法はあまり得意ではない。毒かそうでないかぐらいは持ち前の知識で取り分けることぐらいはできるが、味は食べてみるまでは分からない。実食してみて、呼吸が一瞬止まってしまうほど驚いたことだってある。

「むしろ、料理ができないエリーゼさんに驚愕ですよ。独りでいたらある程度の料理ができるよう勝手になるもんですよ」

「ある程度は、ね。でも、これほどおいしい料理はできないもの……」

 濃厚なミルクの味がする。他人の作る料理が物珍しくて美味しく感じる――というものもあるが、このウォルクという男――かなりの料理の腕前だった。もう、これだけで生きていけるほどの腕前で、旅をつづけながら本を書くよりかは、どこかで料理人として店を構えた方がいいのではないかと思うぐらいに卓越した技術が料理から垣間見える。

 平和な時代だったならば、村の外れで小料理屋を経営していたとしても、都からの使いがきて立派な店を構えられたかもしれない。この前大蛇に丸呑みにされていたことからも、戦闘能力に不安がある。そんな奴が各国を回るなんて危険行為をするよりかは、料理だけで人生を全うにした方がよっぽどいいと思うのだが、そんなものは私の独りよがりな考えだ。口に出してしまうような愚行は犯さないでおこう。

「それに、この森から出ないと食材があまり手に入らないからね。香辛料とかは特に……」

「薬草やキノコ、肉とかは大量にあるみたいですけど、それだけじゃ飽き飽きしそうですもんね。そういえば、どうしてエリーゼさんはこんなところに一人で? 他にも村人とかはいるんですよね」

「……いないわよ、近くにはね」

「一緒に暮らせばいいのに……」

「そういうわけにもいかないの。私は一人で生きる方が心地いいしね」

「……そんなもんですか?」

「そんなもんなんですよ」

 軽口で応える。

 ズキン、と痛んだ心には見て見ぬふり。

 重い口調で、私が一人になっているのには理由があるんですよ、と切り出すことなどできない。彼には、何も知らないままで会って欲しい。

 無知であるということは、ただそれだけで他人を傷つけるということだ。……だからといってウォルクのことを咎めることはできない。何も言わない、言えない私の方が悪いことは当たり前のことなのだから。それに、そこまで踏み込んだ関係に至ろうとは思えない。悩みや葛藤を打ち明けることで、私の鬱積は削れていくだろう。気が楽になるだろう。だが、それが何だと言うのだ。

 私の重みを彼に分け与えることになるだけだ。愛だとか思いやりだとか、そういうものを分けるのだったらわかる。私には縁のないものだが、理屈という概念では分かる。――だけれど、やはり自分の荷物は自分だけで背負いたいのだ。それがどれだけ愚かなのかは分かっている。いつかはその荷物に押し潰されてしまうことになるということも。誰かに頼るということは恥ではなく、絶対にやらなくてはならないことだ。

 だけど、ウォルクは頼れない。別に付き合いが浅いからとか、頼れる人間ではないからとかそういう話ではない。たとえ相手が誰であっても私は、私の重荷を誰かに背負わせたりはできないだろう。きっと、誰にも理解できないものだからだ。

 もしも、恥を忍んで私の心の重さを肩代わりしてくれるように懇願する相手がいるのならば、それは、恐らく私のような人間だろう。そんな人間が存在しないことは分かっている。だからこそ、仮定の話。私のような人間がいるのなら、心置きなく開示できるだろう。

 でも、もしもいるのならば、そいつはきっとかけがえのない理解者になる前に、不倶戴天の敵となるだろう。斬って捨ててしまうだろう。私は、私という存在が嫌いだ。嫌いだから、私に似ている者を赦すことはできない。看過することなどできない。理由なき殺戮しか私にはできない。ただむしゃくしゃしてヤってしまいました宣うこともありえる。

 私は、ウォルクが、私とまったくといっていいほど似ていないからこそ、今こうして同じ空間でいられるのだと思う。自分と同質である人間か。自分と異なる性質を持つ人間を持っているのか。どちらが惹かれるのかは永遠の命題ではあるが、私はきっと後者を選ぶことしかできないだろう。

 弱くて、明るくて、そういう部分がたまに無性に業腹なのだが、殺し合いをせずにすんで御の字だ。

 願わくば、こんな緩みきった時間が悠久であって欲しい。そうすればどれだけ心に平穏をもたされるか分からない。一人でいる時の平和な時間とはまた違う。謎の温かさがある。今、私のことを温めてくれている、このシチューのような温かさがある。でも、そんな温かさもいつかは冷めるものだ。

 ガキンッ、と家の鍵を壊さんばかりの音で、勝手に外から開けられる。ビュゥウといきなり吹いた風によって、暖炉の火が消えそうになる。随分と無作法な来客者のようだった。訪問する作法も知らないらしい。

「誰?」

 ウォルクが質問してくるが、私にも分からない。強盗やモンスターの変身の類ではないことだけは確かだった。遭難者というわけではない。それにしては装備をしていない。旅のものではない。恐らくは、村人。近隣には村人などいない。このうっそうと茂る木は、姿を隠すには絶好の場所だった。だから、ここより少し遠いところに隠れ村があった。村、というよりは集落のようなものだったが、まさか、村人がここを訪れるなんてことをするとは思わなかった。

 だって、ここは村人にとって禁忌の場所。私は、彼らにとってモンスターよりも疎まれる存在でしかないはずだ。私にはどこにも居場所がない。村人に追いやられた私を、どうして今更になって訪ねてくるのか。それは、すぐにわかった。

「助けて、くれ! いや、助けろ! 村に、村に、大量の蛇が!」

「蛇……? そんなものどうにかすればいいんじゃないですか?」

「大蛇が! 炎を吐く大蛇がっ! お前のせいだ! モンスターがお前のせいで村を襲ってきた! 恐れていたことが、ついに起きた! お前が災厄だっ!!」

 どうやら緊急事態のようだ。血の臭いがする。じわりと、村人の横っ腹から血が滲みだしている。中年の男の瞳には怯えがみえる。そうとう酷い目にあったのだろう。顔も見たくないだろうに、この私に八つ当たりするぐらいだ。敵の数はそうとうのものだろう。

 最近、蛇を多く見るようになった。寒くなってきて、蛇の活動期間なんてたかがしれているのに、大量に見るのを不審に思っていたが、そういうことか。モンスターが大量発生し、さらには村人が襲われている。これは何者かの意志があるものだと考えていいかもしれない。

 チラリ、とウォルクを一瞥する。

 まさか――という疑惑が首をもたげる。こいつが来て、すぐに異常なことが起こった。だとするならば、この事件の後ろで糸を引いているのは――? あの弱弱しい態度は演技で、私に取り入るためのものだったとしたら? もしもそうだとしたら、ここらで首と胴体を切り離してやらなければならないが、確たる証拠もないし、それに――なんだか嫌だ。

 殺したくない。

 情に流されているわけではないが、私は人間を殺したことがないのだ。怖い。私の生まれを考えればあるまじきことだが、私は本当は誰も殺したくない。モンスターはなんとも思わないが、やはり人型の別の種族となると躊躇われる。私は殺さなければならないのに。他の誰よりも殺さなければならない星の下に生まれたのだ。私の親だってそういう風に生きてきた。そうならなければならないのに、どうしても考えるだけで手が震えてしまう。

 こんなんだから色んな人に見下されるのだ。蔑まれるのだ。欠陥品の烙印を押されても何も言い返せない。

「エリーゼさん?」

 ぽかんとしているウォルク。私は彼を信じている。いや、信じたい。どうにもタイミングが良すぎる気がするが、疑わしきは罰したくない。ただ、それだけのこと。冤罪で無実の人間を殺す畜生ではないというだけのことだ。それ以上の意味などあってはならない。

「――あなたはここにいなさい。私一人で行くから」

「いやいや、僕も行きますよ。この前はちょっと油断しましたけど、戦闘だったら――」

「来るなっ!!」

「っ!」

 彼が、本当に無実というのならば、ここから先は来てはならない。一喝したせいで萎縮してしまっている。この程度でビビッているようでは、戦場ではお荷物になるだけだ。彼は、優しすぎるし弱すぎる。何も知らない無垢なる子どものようだ。それはもしかしたら、平和な世界では美徳なのかもしれないけれど、この戦乱の世ではもっとも忌むべきものだ。

 人は死ぬのだ。

 そんな当たり前のことを彼は受け入れていないようだ。弱いというだけで、それだけで罪なんだ。私はそうして罰せられてきた。誰も彼もから罵られてきた。私は、本来ならば世界で一番強くなければならないのに。みんなを先導して、この世界に本当の平和が訪れるように尽力すべきなのに。

 私にはそんな力がなかった。

 もしかしたら、今、目の前にいる彼を救うことすら叶わない。例え無力でも、何かをしたいというその尊い想いを成就させることなどできない。私には、村人全員を救うことすら失敗しているのだ。世界を救うことなんてできるわけがない。

 私には何もない。

 ほんとうに、誇張ではなく、何もないのだ。

 あるのは、後ろ暗い絶望だけだった。

 未来は閉ざされ、過去を振り返ってもしっかりとした足跡など一つも残せていない。ああ、でも、だからこそ、ウォルクに眩しさを感じたのだ。息苦しいまでの真っ直ぐな想いに、心をひっそりと打たれたのだ。

 夢は希望。それがある限り、命を粗末にしてはならない。私は、大丈夫だ。命を適当に扱っても、誰も悲しむ人間などいない。昔は、私のことを想ってくれる人がいたかもしれないけれど、その人は、もう、この世にはいない。失ってきた。守れなかった。助けられなかった。

 たくさんの死を見てきた。

 泣きながら、生を懇願する人達がいた。

 親が死んで泣きながら炎の戦場を歩く子どもがいた。

 モンスターから受けた傷のせいで目が見えなくなってしまった老人がいた。

 そういう、ありふれた惨劇を内包したこの世界を恨んできた。神様をこの手でこの地獄のような世界まで引きずりおろしてやりたかった。

 でも、感謝できることができた。

 この世界にまだ残っている希望に出会わせたことに。

「あなたにはやりたいことがあるんでしょう? だったら、いい加減道草を止めて行きなさい。――その人のことお願いね」

 私には何もない。希望なんてどこにもない。希望とはとても言えない夢ならばあるけれど、死んでしまってもいいと思っている。この手で葬り去りたい者達が大勢いるけれど、その中には、ちゃんと私も含まれているのだから――。

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