第16話 壊れた衛星

 野田は大きなキャンバスを抱えながら、タイムズスクエアの真ん中を一人、歩いていた。ブロードウェイの看板のネオンが、昼間の雑踏にきらめいている。あかりの出演する舞台を見に、メキシコから飛行機を乗り継いでやってきたのだ。世界を旅して回っているうち、いつの間にか長い月日が過ぎ去っていた。ここへくると、迷い込んだ猫のように不安げに歩いていたきみ子のことを思い出す。


 油絵の具の道具一式をいれた袋を背負い直して、野田はふと何かに呼ばれたように足を止め、振り返る。大きな街頭モニターに映し出される映像を見ているうちに、手に持っていた袋が、ずり落ちて、中身の絵の具が道に散らばる。絵の具は通り過ぎる人々の足に踏みつぶされてゆく。それは今世界中で話題の、インターネット上にあげられた三分ほどの映像だった。野田はその短い映像を食い入るように見つめた後、ブロードウェイに背を向けて、タクシーに飛び乗った。


             *

  


 きみ子は前を見る。あの瞳が私にもできるだろうか。この世を凛とにらみつける、あの瞳。いやもっと、あかり以上の、生きることを、死ぬことをも睨みつけて放さぬような強い眼差し。


 父が昔と変わらぬ眼差しで、ビデオカメラをこちらに向けている。


 きみ子は頭上へ思いっきり手をのばす。ライトが点く。床に落ちる影。流れ出す音楽。ライオンキングの「サークルオブライフ」。きみ子は舞台の上を縦横無尽に駆けめぐる。生命力の踊り。カメラがきみ子を追いかける。きみ子はめまぐるしく走り出す。光になる。哀れませてやるものか。ドレスが揺れる。きみ子は今までの全てを睨む。私の光はここにある。私は一瞬の花火のように光って、落ちて、散ってゆく。だから、誰よりも光るはずなのだ。ライトが夜空を切り裂いてゆく。空気が震える。音すら私に追いつけない。螺旋を描いて、光に溶けて、全てより早くとんでゆく。あの遙か彼方の惑星を追い抜いて、ブラックホールの塵になる。壊れた衛星は、もうどこにも探せない。


       

            *



 筋肉の落ちた体を横たえて、きみ子は窓の外の星を見つめている。横にいる父がじっとこちらを見つめている。きみ子にはもう、言葉を発する力もない。お父さん。私は今世界中で人気者なのよ。伝説のダンサーなのよ。お父さんは特等席だったでしょ…心の中でそんなことを思っている。


 ドアが勢いよく開いて、誰かがこちらに駆け寄ってくる。きみ子はゆっくりと彼をみる。立派なライオンだったよ、と彼が言う。きみ子は静かに笑う。空には星が輝いている。

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まよいの衛星 ほしがわらさん @kometaro

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