第15話 まよいの衛星
「死ぬのがこわくなって」
きみ子は寒気を感じて、身を守るようにカーディガンを羽織り直した。
「死にたいと思うのに、どうしてもこわくて」
きみ子は震えていた。花は一瞬驚いたような顔をして、きみ子のか細くなった手を探り当てて、力強く握った。その手もまた震えているのだった。
「そりゃあ、生きているから、仕方ないわ」
花は諭すように答えた。きみ子はその手を握り返す。私の意志は死にたいと思っているのに、細胞が生きようと戦っているのだと思ったら、細胞すべてに申し訳なく思うのだった。
「でもあなたの踊るのをみていたら、死ぬのが少し怖くなくなったの」
花はひとつひとつの言葉を逃すまいとしているようだった。
「なんでかしらね」
きみ子は視線を落としたまま、花の言葉を噛みしめた。細胞がその言葉に震えているようだった。
「またみせて。」
きみ子は小さく、はい、と震える声で返事をした。花は優しく微笑んでいた。その表情を、きみ子は一番星の瞬きのように思った。
きみ子はその日の夕方、一週間ぶりに屋上へ向かった。絵の具のにじんだような夕焼けだった。西日を浴びながらきみ子はひとり踊った。老人達はきみ子の復活に喜んだ。しかし花はいつまでたっても現れなかった。きみ子は花を待ち続けた。その間中、一週間分の空白を取り戻すかのように、踊り続けた。呼吸が浅くなり、頭がふらふらした。体がいうことをきかなくなっても、きみ子は踊るのをやめなかった。きみ子の瞳から涙がこぼれた。花さん、どうしてこないの。きみ子は涙を拭いて、踊り続けた。日がすっかり暮れて、客がだれもいなくなっても、きみ子は踊り続けた。花はもう現れないのだと、きみ子は心のどこかで悟っていた。涙が次から次へとこぼれ落ちて、もう止まらないのだった。花さん、どうしてきてくれないの。私の今日の踊りは、あなたのためのものなのに。きみ子。もういいの、もう踊らなくてもいいのよ。母がそう言って、きみ子の手をとった。
「おかあさん。」
「もういいのよ。」
その時空に一番星が光って、きみ子の頭上で輝いているのだった。
これ、あなたに。そう言って花の娘がきみ子に渡したスケッチブックの切り取られた一ページには、震える線の、踊り子の絵が鉛筆で描かれていた。花は最後まで描き続けていた。花の娘はどこか魂の抜け落ちたようなしかし優しい顔をしていた。きみ子はその絵を見ながら、花の言葉を思い出す。きみ子さんは、なにかを残せる人だと思うわ。
きみ子は父に電話をかける。お父さん、ビデオカメラ持ってる?
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