第14話 止まった水星

 きみ子は次の日屋上へ行かなかった。一日中をベッドの上で過ごした。毎日とりつかれたように一心不乱に踊る娘をそっと見守っていた父が、ふさぎ込んで眠るのを、心配そうにのぞき込む。


 「おまえのこと、下の階のおばあさんが心配してたよ」


 きみ子は目をつむったまま、返事をしなかった。


 「あとこれ、ありがとうございましたって」


 父が差し出したのはくしゃくしゃになった、絵の具の入った紙袋だった。きみ子は薄目を開けてそれを見て、小さく頷いて、また目をつむった。お父さん、私早く死にたいの。きみ子は心の中でそう答えた。もう生きてても仕方がない。生きていると、くだらない夢を抱いてしまう自分に疲れたの。


 父はそれっきり何も言わなかった。明日も仕事で早いのに、またいつものようにつまらないテレビをきみ子の横で見始めるのだった。隙間を埋めるように絶えず流れる言葉と笑い声。ああ早く死にたい。生きていても聞こえてくるのはこんな無意味な音ばかり。




 その日から、ベッドから一歩も動かない日が続いた。一気に生命力が失われてしまったようだった。きみ子は夢をよくみるようになった。夢の世界は居心地が良かった。夢から醒めたくない。きみ子はそう思うようになった。このまま眠るように死にたい。きみ子は夢の中で踊っていた。桜の花びらの舞い散る中で、踊っていた。ただ風のように軽やかに踊っていた。桜の花びらが舞い散ると、野田がこちらを優しく見つめているのだった。彼は最初に出会った頃のままで、拾い猫を見るような眼差しを向けている。気がつくと、きみ子は本当に猫になっているのだった。のばした手はピンク色の肉球に変わり、ステップをふんだつもりで尻尾を振っている。桜の木の枝の隙間から、朝の光が漏れてくる。そうか、私は猫だったとようやく気づく。今更気づいたの、と野田が笑って頭を撫でる。




 眩しい光に目を覚ます。時計は朝の五時を指している。夢と現実の境目がわからなくなっている。眠るのも体力がいるのだときみ子は思う。ゆっくり起きあがって、のしかかる重力に、これは現実だと確かめる。少し冷たくなった空気に、厚手のカーディガンを羽織る。


 行く宛もないままふらふらと歩き出して、薄暗い廊下を進んでゆく。眠っていた得れベーターのボタンを押して、きみ子は引き寄せられるように406号室へ向かう。寝息だけの響く病室は、朝の空気に澄んでいる。きみ子は音をたてないように花のカーテンの隙間からのぞきこむ。老婆は死んだように眠っている。かけられた白いシーツが微かに上下に揺れている。サイドテーブルの上に、一枚の写真立てが置かれている。若かりし頃の花だろうか、無地の背景に、一人の女性と、背の高い優しげな丸眼鏡の男性が笑っている、白黒の写真だ。


 「花さん。」


 きみ子は囁く。老婆はそっと瞼を開く。夢の合間を漂っているような表情で、そっとこちらへ頭を向ける。


 「ごめんなさい、起こしてしまって」


 「きみ子さん、どうしたの」


 老婆のかすれた声が囁く。

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