第10話 憧れの海王星
あの人はどうやって絵の具の色を識別するのだろう。筆やスケッチブックは持っているのか。娘にばれないようにかくのだろうか。どうして目が見えないのに描こうなんて思えるんだろう。きみ子はそればかり気になって仕方がないのだった。なので翌日、屋上で彼女を見つけたとき、はやる気持ちをおさえながら、ゆっくりと近づいていった。
「花さん」
「きみ子さん。こんにちわ。」
空はどんよりと曇っていた。老婆は分厚いカーディガンを羽織っていて、その膝の上には小さなスケッチブックがおさまっていた。
「今、なにを描こうか考えていたの。」
「お邪魔でしたか」
「いいえ、とんでもない。ここへ座らない?」
花は無邪気な女生徒のように言った。年若いきみ子に、同い年くらいの友人のように、親しみをこめて話しかけるのだった。きみ子が隣のベンチに腰掛けると、花は言った。
「あなた、どうして私が絵なんか描くのって、そう思ってるのでしょう」
花はいたずらっぽく笑った。きみ子は心のうちをまんまと悟られたようで、返事に困った。
「絵を描きたいと思いながら、そのまま年をとり続けたからね」
きみ子は老婆を見た。
「でもいろんなことがあって、かけなかったのよ。」
きみ子はわかるような気がして、返事ができなかった。安易な返事をしてはいけないと思ったのだ。誰もが夢を追いかけられると思ったら大間違いだ。人生には色々な事情があるのだ。夢を追いかけることは美しくても、夢に敗れる人を、見下す権利が誰にあろうか。成功者が話す言葉は、魔力のように夢にやぶれた人を傷つける。しかしきみ子はいつも思っている。他人の人生を、夢を追いかけられなかった人の葛藤を、夢を追いかける力も覚悟もないやつらだと、他人に見下されることがどうしてあり得ようか。その人の後悔はその人自身のものだ。
「年をとって、胃ガンになって、目もみえなくなって、ようやく、解放された気がしたのよ。」膝の上のスケッチブックが、風でめくれた。白紙だった。どのページも、まっさらな白紙で、花は自由だった。
「私はなにを描いてもいいのよ。」
きみ子は石のようにじっと黙って耳を傾けていた。花が口を開く度、老人特有のすっぱいような匂いがしいた。死の匂いかもしれなかった。花はそんな匂いをさせながら、少女のように語った。少し呆けてるのかもしれなかった。
「きみ子さんは」
「え?」
「なにかひとつ」
「はい」
「のこしたくはないの」
ここにいるということは死期を待つ患者ということだった。花は遠慮することもなく、邪気もなくそう尋ねた。
「わたしはなにも…」
きみ子は流れてゆく灰色の雲を見つめた。浮かんでくる言葉は意味のない言い訳にしかならなさそうで困った。
「絵の具をもってきてくださって、そんな人ははじめてだったから」
花の声はしわがれてかすれているのに力強かった。
「きみ子さんはなにかを残せる人だとおもうわ」
きみ子は言葉を失った。そんなことをいわれたのは初めてだった。花に絵の具をもっていった自分はまだ、何かにすがりつきたいのではないかと、確かにぼんやり思っていたけれど。
きみ子は花の前でたどたどしく、衰えた肉体で、すこし踊って、すこしうたってみせた。それは憧れていた、ほえたりうなったりする方のシンバだった。スマートフォンから流れてくる音楽にあわせて踊っているうち、とても自由な気分になってくるのだった。腕を頭上へのばして、きみ子はライオンキングの、愛の歌をうたってみせた。空中で、きみ子のか細い指は気持ちよさそうに震えた。きみ子は叶わなかった夢を嘆く自分を許すように踊った。頭の中で、果てた夢を思い浮かべた。ニューヨークのブロードウェイ。まぶしいライト。満員の客席。観客は私の中に自分自身の姿を重ねる。私はその人になる。彼らが生きるために踊る。私は舞台の上で苦しみ、泣いて、また立ち上がる。その時私の猫背の背中はまっすぐのびて、越えられそうになかった明日を貫くように見つめている。その時そこには誰もいない。私自身は消えるのだ。観客に身も心も差し出して消滅する。そのとき、私の夢はきっと叶っていたはずだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます