第9話 かすれた冥王星

 406号室はきみ子の部屋のちょうど真下にあって、きみ子の部屋と同じ造りだった。きみ子は少し緊張しながら、その部屋へ足を踏み入れる。夕暮れの淡い光が窓から差し込んでいて、暗い部屋を仄かに照らしている。先ほどの老婆は窓際のベッドに上半身を起こして腰掛け、虚ろな乳白色のにごった瞳でぼんやり宙を見つめていた。見えているのか見えていないのかわからず、その様子はまるで渇ききったミイラのようだった。きみ子はその瞬間、踏み入れてはいけない領域へ足を踏み入れてしまったようで、激しく後悔した。戻ろう、きみ子が胸に抱えた紙袋をぎゅっと抱きしめて部屋を出ようとしたその時、「まって。」という弱々しい声がした。きみ子は驚いて足を止めた。「待って。どなた。」必死に何かを探り当てようとする声が、きみ子の足を引き留めた。きみ子はクロックスの履いた足を硬直させた。逃げ出したいという気持ちの反面、何か逆らえないような力につかまって、動けないのだった。


 きみ子はゆっくりと老婆の横へ歩いていき、その骨ばった血管の浮き出した手をとって、絵の具のケースの入った茶色い紙袋を手に握らせた。


 「絵の具です。よかったら。」


 すると老婆は皺だらけの顔をほころばせて、嬉しそうに微笑んだ。枯れ果てた庭に、花が咲き乱れてゆくような笑い方をした。老婆は生まれたての赤子の感触を確かめるときのように、袋をさすってみせた。


 「ありがとう。」


 彼女は目をつむって体を折って、その場でお辞儀をしてみせた。


 「お名前を」


 「きみ子です」


 「きみ子さん。ありがとう。」


 老婆は何度も、見えないきみ子に向かって頭を下げた。その瞳から、涙がにじんでいるのを、きみ子は胸のつまる想いで見ていた。


                   *


 「下の階の、おばあさん。絵描きさんだったんですか?」


 看護婦が様子をみに回って来たとき、きみ子はふと尋ねてみた。同い年くらいの彼女は、しばらく考えてから、「ああ。花さんに会ったんですか。」と腑に落ちた声を出した。


 「絵の具をほしいって、すれ違う人にお願いするんですよ。」


 「でも目がみえないんでしょう。」


 看護婦は窓を閉めて、鍵をかける最中だった。すっかり日は落ちて、薄い蒼の空が、カーテンに隠れて見えなくなった。


 「あの人は、目が見えなくなってから、絵を描きたいと思うようになったんですって。自分の生きていたことを残したいと」


 看護婦は背を向けたまま言った。


 「そういう方は、結構いらっしゃいますけど、花さんは珍しいわね。目がみえないことに逆らおうとしているみたいで」


 きみ子はそういえば自分も、ガン患者の漫画や小説を読んだことがあると思った。果たして自分はどうなのかと自問すると、捨てられないゴミ箱の中で眠っている夢を思わずにはいられないのだった。

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