第8話 老いた土星
黒い闇のしずかな夜。きみ子の頭の中を、あの愛しい白い猫が丸くなって眠っている。幼稚園のお遊戯会。大人達の包むような拍手。きみ子は友の間を小さな体ですりぬけて、先生にいわれていた並び順を守らずに、一番前の列へと進み出る。音楽に合わせて、きみ子は精一杯体を揺らす。母の作った手作りの白いバレリーナのドレスを、きみ子はとても気に入っている。毎日だって着たいと思う。父の顔を客席に見つける。きみ子は嬉しくなって、まぶしい笑顔で笑ってみせる。
父は今、ベッドの横の固い丸椅子に座って、手持ち無沙汰にテレビを見ている。きみ子はその薄くなった後頭部を見て少し切ないような気持ちになる。お父さん、あのね。きみ子はかすれた声を出す。なんだ?父は振り向かないまま答える。覚えてる?昔うちにいた、白い猫のことを。私、あの猫を、人生で一番愛していたの。どんな男よりも一番。父はその言葉に、なんだそれ、と言って鼻で笑う。きみ子は父の声を懐かしく思う。大学生になって家を出てから、たまに帰っても、ろくに口を聞かなかった。続かない会話は煙のように行き場無く漂って、あっという間に蒸発してしまう。でも今は続かぬ会話をしながらでも、父との時間は淡々と続いてゆく。出口をうしなって閉じこめられた煙。父は何を思っているのだろう。何も残せないままに死にゆく娘を、どう思っているのだろう。
きみ子の髪は抗ガン剤の副作用で抜け落ちた。吐き気が止まらなくなる。きみ子は鏡に映る自分の姿を見て愕然とした。あの魂の抜け殻のように生きていた日々も、生命力というものが確実に息づいていたのだと感じずにはいられなかった。きみ子は人間というものはどこまでも落ちてゆくものだと思った。終わりのない穴ぼこ。どこまで落ちても底ではないのだ。つらいつらいと思っていても、その先にはまだ知らぬ苦しみがある。
きみ子が花さんと出会ったのは雨上がりの秋晴れの屋上だった。枯れ葉が湿った床に散らばっていた。洗濯物の向こうで、花さんは一人目を閉じて車いすに座っていた。眠っているように見えたが、きみ子の足音に気づいて、突然こんにちわ、と挨拶をした。目は閉じたままで、その顔には大木の年輪のように皺が刻まれている。
こんにちわ。きみ子が答えると、老婆は震える手をのばした。きみ子は反射的にその手に触れる。
「お嬢さん、お願いがあるのよ」
「なんですか」
「私のために、絵の具を持ってきてほしいの。」
そう言って開かれた老婆の目には乳白色の膜が張っていた。老婆はきみ子の両手をすがりつくように握った。その力が思ったよりだいぶ強くて、きみ子は仰天する。目がみえないのに、どうして絵の具を。
「意地悪な看護婦と娘が、私から絵の具を奪うのよ。だからお願い、私を助けて頂戴」
老婆は懇願した。命尽きる前に、早く。
きみ子が困惑していると、屋上の入り口から甲高い声がして、一人の中年女性が足早に近づいてくるのが目に入った。老婆はその声に、ひどく怯えたように身を縮こませる。
「また、お母さんは!ごめんなさいね、いつもこれなのよ…全く」
ひっつめ髪の疲れた表情をした彼女は、車椅子を強引に押して去ってゆく。きみ子はその様子を呆然と見送りながら、車椅子の籠からぶら下がる、小さな札をみた。それは猫につけるような小さな札で、
「406 宇田花子」
と手書きで書かれているのだった。
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