第7話 壊れた衛星

 しかしきみ子に預けられた砂の残りは、いつの間にか風で吹き飛んでしまいそうなほど僅かなものになっていた。きみ子は両親と共に、白い無機質な蛍光灯の部屋で、自分の体に息づく腫瘍の写真をぼんやりと見つめながら、頭の中は驚くほど冷静だなと感じた。砂埃で煙っていた視界が突然クリアに開けたような感覚。余計なことはもう考えなくっていいのだ。ああよかった。もうあの虫唾の走るようなセクハラ課長とも、延々と続く伝票整理も、不躾な若い社員とも、報われなかった恋心とも、自分の中にくすぶり続けようとする悪魔のようなコンプレックスともおさらばできるのだ。


「きみ子。」


 母が涙をこらえながらきみ子の手を強く握りしめた。ああ、何年ぶりだろうか、こんなに強く誰かに手を握ってもらえたのは。きみ子の手から、一筋、涙がこぼれ落ちて、母の少し筋張った手の甲を、雨を告げる最初の一滴のようにぽつんと濡らした。


 「母さん、私は悲しくないよ。だってなんだか私ずっと、この世にあわないような気がしていたの」


 そんなことを言おうとしたけど、悲しい言葉はそれ以上でもそれ以下でもなく、きみ子は押し黙る。窓の外でいくつもの星が微かな光を放ちながら、この哀れなきみ子の運命を見守る。




 六月のねばついた雨の香りが病室まではいりこんでくる。きみ子はだるい瞼をゆっくり開けて、白い天井を見つめた。眠れぬ夜はいつの間にか過ぎ去って、けだるい午後の光が窓の外をほんのり照らしている。


 きみ子のガンが見つかってから、一ヶ月が経とうとしていた。残りの時間が少ないのを、周りの人の態度や素振りから何となく感じ取っていた。恐ろしさに耐えきれず、涙する夜も、日を追うごとに減っていった。きみ子は静かな病棟で、じっとその時を待っていた。知人や友人には何も知らせなかった。哀れまれることが一番の苦痛と思った。


 その病棟は死期の近いガン患者が大半を占めていて、きみ子の部屋は四人部屋だった。皆カーテンを閉め切っていて、口をきくことはなかった。たまに家族が着替えを持って訪れ、ひそひそ声で話しているのが耳に入ってきた。カーテンの隙間からたまにのぞく彼らの生気を失った瞳を見ると、自分もああいう目をしているのだろうかと思う。しかしそれは、普段街で見かける人々の瞳と、どこか通じるものがあるように思うのだった。虚空を見つめるような瞳。そしてきみ子はあかりの目を思い出す。生命を体現するような、あの獣のような瞳。


 ぼんやりとたゆたうレースのカーテンが、夕日に影を作って揺れている。きみ子は病室の小さなテレビに、あかりが突如現れたのを、身を乗り出して食い入るように見つめた。それはきみ子が朝の会社で見つけた、ファーマーズ製薬のTVCMだった。あかりが一人、朝日のさしこむ薄闇の白い部屋の中、ダンスの練習をしている。しなやかな肢体がのびのびと舞う度、木目の床の影が揺れる。凛とした背筋。生き物のように意思をもってなびく短い黒髪。長い手足が、飛び立つ白鳥を思わせる。窓の外に映るビル群は、夜がまだ明け切らないマンハッタンだろうか。企業ロゴがインサートされて、ラストに数秒ほど、あかりの表情がアップで切り取られる。きみ子は息をのむ。ずっと見ていたから、ずっと追いかけていたから、きみ子にはわかる。その瞳の奥深くに、かすかな戸惑いと不安の色が眠っているのを、その一秒もない映像から感じる。何も迷わず、突き進んでいた頃のそれとは違う。彼女の周りをきっと幾多の利害関係が泳いでいる。彼女はつぶされるだろうか。才能あるものの人生が、未来永劫咲き誇り続けるとは限らない。きみ子は思う。私が憧れていたものとは何か。その正体は何者か。私が突き動かされた衝動とはなにか。それは弱いものだったのか。私が追いかけていた形のない光はどこからやってきたのか。そこにあかりや野田や、才能の有無や、商業主義やその他諸々は、全て無関係なところで、きみ子が自分自身で見つけた、腐った世界でたったひとつ信じられる、確かなものではなかったか。私は今までずっと、その光に惑わされながら、その周りをぐるぐる回り続けてきたのではなかったか。そう、壊れた衛星のように。

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