第5話 戸惑いの木星
大学の演劇サークルの部長が野田の知り合いだった。帰国してすぐに部長の石田と名乗る怪しげな男から連絡が入って、きみ子はすぐにサークルの一員となった。皆、のんびりと自由に学祭で演劇を発表したり、部室で意味もなく集まって課題をやったりして、暢気に過ごしていた。それまでバイトばかりして学生特有の心地の良い刹那的な馴れ合いというものに慣れ親しんでこなかったきみ子だったが、そういうものも悪くはない、と新たな世界を手に入れたような心持ちだった。何より忘れた頃にフラと飲み会に現れて酔いつぶれて帰って行く野田に会えるのがきみ子の楽しみであった。きみ子は野田を好きだった。
しかしその愉悦は半年もしないうちに閃光のように現れたあかりの登場によって崩れ落ちた。これも野田の一言によって決まっていた夏の学祭で上演する予定だった念願のライオンキングも、、主人公シンバはあかりのために脚本から書き直された。シンバはメスライオンで、唸ったり吠えたりしないヒロインになった。唸ったり吠えたりしなくてえもあかりの迫力は見ている者を圧倒した。リハーサルの光景を大道具係としてぼんやり見つめながらきみ子は思った。きれいで、かっこよくって、輝いてる。スポットライトを浴びて立つあかりの姿は王者の風格だった。生まれ持った才能だった。きみ子は光のあたらぬ陰の中、あかりを目で追いかけた。どんなに想像力を膨らませても、あかりの場所に立つ自分の姿を思い浮かべることができなかった。
ふと客席に野田の姿を見つけて、きみ子は慌てて幕の裏へとひっこんだ。情けない自分の姿を見られるのは何より苦しかった。
学祭は完膚無きまでの成功をおさめた。今までにないほどの客が小さな講堂に押し寄せて、あかりの一挙一動に皆魅き込まれた。きみ子自身ひどく感動して、見せ場のシーンの度、目頭が熱くなるのを抑えられなかった。愛する父を喪う苦しみ、恋人に囁く愛の歌、仇討ちを果たして王者として君臨するクライマックス…あかりは一匹のライオンの生き様を見事に表現してみせた。きみ子はやはり自分は舞台を純粋に好きなのだと実感し、その思いに引き裂かれもするのだった。こんなに好きなのに、どうしても私はあのライトの当たる場所へ、走り出すこともできず、指をくわえて見ているだけ。違う。抱いてはいけない夢なのだ。私のように才能も勇気もない凡人は、自分の背丈にあった生き方をしなければいけないのだ。だからここに立つ自分を、誰にも否定させはしないのだ。
あかりの握手に並ぶ長蛇の列の横で、サークルのメンバー達は意気揚々と後かたづけをしていた。部を立ち上げて以来の黄金時代の到来だ。これからも彼女のおかげで、注目度はあがってゆくだろう。もっと真剣に、練習に励んで、舞台の精度をあげてゆこう…それが部長の意向で、皆の総意だった。きみ子は盛り上がる皆を尻目に一人、黙々と後かたづけをこなしていた。突然、後ろから肩を叩く者がある。拾った猫の様子を見にきたかのように、笑顔の野田が立っていた。一瞬、あの冬に時が巻き戻ったかのような感覚に襲われる。野田さん、どうでしたか、と石田が尻尾を振って近づいてくる。
「まあブロードウェイには負けるよな」
野田は笑いながらきみ子の頭を叩いた。きみ子はされるがまま、野田を探るように見上げ、これはこの人の精一杯の優しさなのではないかと、思いを巡らせてみる。そしてふと、学生達に囲まれたあかりが、こちらを盗み見ているのに気づく。きみ子はその視線に気づかない振りをする。胸がざわつく。
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