第4話 宇宙ゴミの夢
あかりが鮮烈な登場を果たす前の冬、大学二年生のきみ子は一人、ニューヨークの雑踏を歩いていた。雪の降りしきるタイムズスクエアを、色とりどりのネオンに目を回しながら、きみ子は一人旅を楽しんでいた。バイト代を貯めて、やっと実現したひとり旅だった。活気と熱気に満ちた、世界の中心を彷彿させるこの場所で、きみ子は胸踊らせながら歩き続けた。街全体が大きな怪物のように息づいて、きみ子の生きてきた狭量の世界をのみこんでしまいそうだった。熱にうかされて惚けた顔で歩いているところを、突然肩を叩かれた。びくっとして振り返ると、ぼんやりと見覚えのある男が、猫を拾ったような無邪気な顔でこちらを見ているのだった。それは同じゼミの野田という男だった。しかし彼はもはや何年大学にいるのか本人にすら分からなくなってしまっているという、社会から脱線気味の風変わりな男で、ゼミにも一度か二度ほど姿を現したことがあるきりで、きみ子はろくに口もきいたことのないのだった。
「おまえ、たしか、ええと、だれだっけ」
「山内です」
「山内…」
「山内きみ子です」
野田は次から次へと波のように引いては寄せる人混みの中で、体を何度も持っていかれそうになりながら、そのことに気付きもしないようなとぼけた素振りで、ぼんやりと空を見上げた。
「ああ、そうだ、そんな名前だった、吉田ゼミのやつだな」
「そうです」きみ子も何度も自分より体の大きな黒人にぶつかりながら、必死に体を踏ん張って野田に向かい合っていた。
「間抜けな顔して歩いてるアジア人がいると思ったらさ、お前だった」
野田は鳴り響く車のクラクションや流れてくる店先の音楽に抵抗するかのような大声でそんな失礼千万なことを言うのだった。しかしそれは久しぶりに聞いた日本語で、きみ子はその言葉自体に不思議なほど腹も立たず、むしろ安心して、肩の力が抜けたのだった。今まで一人、慣れない異国の地で萎縮していたことをその時はじめて自覚した。
「なにしてんの?オンナ一人旅?」
野田は長く延びた長髪を一つに結び、白い無地のセーターに、白黒の市松模様の不思議なズボンを履いていた。足下をみるとサンダルで、近所のコンビニにでもいくようなラフな出で立ちで、見ているだけで凍えそうだ。
「ブロードウェイがみたくて」きみ子も負けじと大声で答えた。
「へえ、なにみるの」
「ライオンキングです」
きみ子は叫んだ。すれ違いざまの金髪の美女が怪訝そうにきみ子を見やった。
「いいじゃん、俺もみよう」
きみ子は目を丸くした。一体この人はここで何をしているんだろう。湧いて出てくる疑問は、街の活気に吸い込まれてなくなってしまった。
ニューヨークで一番だと野田が豪語する橋の近くのピザ屋で、きみ子は興奮気味にしゃべり続けた。異国語が飛び交う満席の店内は不思議な活気に満ちあふれて、きみ子もその雰囲気に酔ったように、ライオンキングにどれだけ感動したのかを、ほぼ初対面の野田に熱っぽく語り続けた。日本では感じたことのない興奮に包まれていた。野田は素晴らしい聞き手だった。シンプルな相づちを打ちながら、ピザに手をつけないまま、丁寧に耳を傾けた。
「すきなんだなあ」
野田のふとした言葉にきみ子はハッと我に返る。自分の興奮が一気に恥ずかしくなる。
田舎者の、世界を知らない愚かな小娘が、何を調子に乗ってしゃべり続けているんだろう。きまり悪そうにワインをあおりはじめたきみ子を、野田は見つめた後、言った。
「俺絵描きになろうと思って、突然、おまえの年くらいの時。」
野田は天井を見上げる。
「まあ今までまともに描いたことのないやつがさ、Fラン大学の文学部に目的もなく入ってるような奴がさ。何いってんだよって感じじゃん。まあその通りなんだけど、あんまり関係ないよな、そういうことはさ」野田の黒々とした瞳は何かを捉えようと宙をさまよっていた。きみ子は胸がつまって、何をいえばよいのかわからずに、ひたすら目の前のカーペットみたいに広がったピザを見つめた。
「まあ身を滅ぼしていくんだろうなあこのまま」
「わたしはあの」
きみ子は言葉が飛び出すようにでてくるのを感じた。隣の席で、腹の肉がクッションのように飛び出したアメリカ人が大声で笑っている。
「ほんとはライオンキングみたいになりたいんです」
「えっ」
「ライオンキングのシンバみたいに、思いっきり叫んでうたっておどって王者みたいな感じになりたいんです」
きみ子は勢いに任せてそう言い切って、目の前の赤いワインを一気のみした。しかし、その言葉は、借り物ではない、きみ子の腹の中の言葉だった。野田は心底愉快そうに笑い出した。「いいじゃん。それ。」
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