第2話 酔っ払いの水星

次の日はすることのない日曜日になって、きみ子がベッドからずるずると芋虫のように這い出たのは午後二時半すぎだった。半日以上寝ていたことになる。きみ子はひどくがっかりする。そんな時は水木しげる先生が毎日十時間寝ていたという事実を思って自分を励まそうとするが、年齢の差がありすぎるのであまり励みにならないのだ。ぼんやりと白飯を口に運んでぼんやりとテレビをみているうちにあっという間に日が暮れる。久しぶりに大学の友人をご飯に誘おうかという考えが頭をよぎるが、話すことは振られたのだ、という一点につきるし、なんだ男にふられた途端連絡してきやがって、都合の良いやつだ、という不満を持たれるのが関の山である。結局何もする気が起きないまま洗濯や掃除であっという間に夜になる。狭いアパートのベランダから、向かいの小さな民家の窓からもれる灯りを見つめる。無邪気な笑い声、ニラを炒めたようなちょうどの良い油の香り。きみ子はいつかああいったものに憧れることのできる自分を思い描いていた。ありふれた家族の幸せ。それが一番。しかし未だにきみ子はそう思えぬ自分を知っていた。そんな自分は愚鈍で非人間的の自惚れた女である。だからきみ子はあたたかな家庭の幸せに憧れる自分へと丁寧に歩み寄ってきたつもりだったのに。才能も特技も持つことができなかった自分が目指すのはきっとああいったものなのだと。他に目指すべきものなどなにもないのだ。しかし今やその望みすら遠くかすんだものになってしまってきみ子は途方に暮れる。足下に落ちた、男の残していった煙草の吸い殻が、過ぎ去っていった瞬間を虚しく映し出そうとしている。きみ子は本当に途方に暮れている。人間の時間は無限大にありすぎる。何をして一人で過ごせばよいのかわからなくって途方に暮れる。一体皆、まともな充実した人々は、この二十四時間をどう扱っているのだろうかとそればかり気になっている。仕事、勉強、セックス、それらは人々のすぐ横で大きな口を開けて横たわる、虚無から逃げようとする人々のあがきにすら思えてくる。ベランダのこの場所で、尾田君の吸いかけの煙草を吸っていた自分をどこへ置いてきたのだろう。ニコチンの毒気が、自分の中の理性を麻痺させてくれることを願っていた自分は今どこへ行ったのだろう。きみ子はそんな風に、沈みゆく夕焼けの向こうへ置いてきた自分を探し続けた。私が自分で決意をして、遠い昔へと閉じこめてきたのだ。夢を追いかけることそれ自体に満足して、輝いていたつもりでいた自分を傷つけることのないように。誰だってきっとそうなのだ。


 同じ総務部の一つ後輩の三十路を迎えたばかりの村田が突然に、今日仕事の後一杯どうですか、と誘ってきた時に、きみ子は思わず身構えた。身構えたというのは、果たして自分は本日、人様に公開できる程度の下着を身につけてきたであろうか、と自問するような類のものである。そういえば今日は二軍選手だったとひどく後悔しながら狭苦しい焼鳥屋のいすに座って村田と向き合って、彼のやけに晴れやかな表情を見た瞬間に、それは残念な取り越し苦労だったと気づく。決して男に捨てられたばかりの哀れな女をどうにかしようという男の表情ではない。村田は見た目こそ抜群に魅力的というわけではなかったが、社外の女遊びは相当盛り上がっているらしいという評判を決して否定しない、嫌らしさのない自然派の遊び人である。なるほど確かに女の扱いはスマートだし気が利くしで、きみ子はどうにかなってもよいのではないかと日々こっそり妄想していたのだ。しかし炭とアルコールの匂いが立ち上る店内で、村田は喧噪にのみこまれないよう、大きな声できみ子にこう告げたのだ。


 「実は教員試験に受かりまして。」


 「はァ」きみ子は砂肝をかみ砕きながら間抜けな声で答えた。またつまらぬ話。男はいつだってつまらない話ばかりだ。


 「会社を来月いっぱいでやめます」


まあ臨時の教員なんですけど、でも山内さんには同じ総務の先輩として、先に言っておきたくて、と村田は熱に浮かされたように言った。どうやら村田の中できみ子はいつの間にか同志のような存在になっているようだった。ほら、総務って色々、軽んじられてるじゃないですか、でも嫌なことあってもまあ山内さんが淡々と、文句も言わないで仕事してるの見てたら、自分もこんくらいで気にしてちゃだめだなって思ったんですよね…村田は照れくさそうにそんなことを言った。それは彼の心からの台詞なのだときみ子には感じられ、つくねを飲み込みながらじっと聞いていた。


「覚えてないかもしれないですけど、一度課長にいわれたことがあって。お前の仕事なんて誰にでもできるような仕事なんだから、せめて早く終わらせろよ、みたいな。そしたら山内さんから突然メールがきて、添付で課長のセクハラ報告一覧表が添付でついてて、覚えてますかね。あの時は地味に救われました。」


 きみ子はその記憶を酔いの回った頭の片隅から引き出した。確かにそんなことあったかもな。あんなセクハラ課長のいうことなど、何の価値もないのだということを、きみ子はいつか報告しようとこっそり貯めていた社員からの証言をまとめた書類データを送って証明してやっただけだ。その中にはもちろんきみ子の証言もあった。別に大したことではないはずなのに、村田はそんな些細な記憶を、とっておいていたのか。きみ子は単純に驚いていた。きっと彼はまだ若くて世間知らずで、身勝手な課長のいうことをまともに受け止めすぎて、必要以上のストレスを抱えていたのかもしれない。意外と周囲の人間は、そういったことに無関心で、無頓着だから、そんな些細なことが、村田の心を少しだけ楽にしたのかもしれない。きみ子は少し心臓の奥の方があたたかくなるのを感じた。何の役にも立てない自分が、いつの間にか誰かの役に少し立っていたかもしれないことが、


「山内さんはいつやめるんですか」村田は充血した目をきみ子へ向ける。「いつまであんなところにいるつもりですか」


 きみ子は返答に窮して、飲み干したグラスを持ったまま固まった。私は…行きたいところもないまま、ずっとあそこに居続けてしまうのだろうか。居続けられてしまいそうなことが、きみ子には恐ろしかった。夢という麻薬のような言葉が浮かぶ。夢などなくても生きていける。ただ毎日を自分の為に生き続けることが、どうしてこんなに苦しいことに思えるのだろう。わかんない、ときみ子は笑った。村田には自分がどんな風に見えているのだろう。無数のサラリーマンたちが顔を赤らめてビールを煽っている。今とは全く違う目で彼らを見ていた日の自分を思う。酒に逃げて、毎日を浪費して、なんてもったいない人たち。自分はあんな風にはならないと、頑固なまでに思っていた、憎たらしいくらいに幼稚な自分を。

          

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