まよいの衛星
ほしがわらさん
第1話 わかれの火星
きみ子は白い天井を見つめながら、私の体内に巣食うガン細胞は一体私にとってどんな意味をもつのだろうかと考えていた。静かな夜はどこまでも続き、空に浮かぶ月は朧気に光っていた。もしかしたら、ときみ子は思った。宇宙人の仕業かもしれない。もしくは、私の人生のうだつのあがらないことにしびれをきらした細胞の反乱かもしれない。きみ子は目を閉じた。こんな風に眠れずにとめどもないことを考えてしまう夜には、幼い頃に共に日々を暮らした白い猫のことを思い出す。彼女のずしんと重たい体が、顔の上を占領して、あの獣の匂いに鼻孔をつつかれながら眠りについたあの日々。のどを鳴らす振動が頭の中いっぱいに鳴り響いて、猫の体内に入り込んでしまったようなあの夜たち。きみ子は思い出して少し笑う。どうして昔の思い出は、美しいもやに包まれて、やわらかく浮かんできては、届かない淡い星のきらめきのように、心の奥のもろい部分を強く切なく締め付けるのだろう。あの頃だって正体もわからぬ宇宙のブラックホールのかけらのような黒々とした不安に襲われて、眠れずに過ごした夜がいくつもあったはずなのに。きみ子は寝返りの打てないままだらしなく腕をだらんと伸ばす。眠れぬ夜は暗いトンネルのように果てしなく続いてゆく。
きみ子は体の中を大量のガン細胞が浸食していると判明する前まで、しがない二十六歳のOLであった。毎日朝六時半に目覚まし時計を一旦止めて、三十分くらい布団の中で淡い眠りをむさぼって、重たい体を引きずりながら台所へ向かい、食パンにマーガリンといちごジャムを塗ってトーストして着替えて化粧をすませて家を出る。猫背気味にホームに立ち、満員電車につめこまれながら会社へ向かう。都内のはずれにある社員三十名ほどの広告制作会社がきみ子の職場だ。まだ誰もいないオフィスの鍵を開け、入口に一番近い自分の席へ荷物を起き、眠っているパソコンを起動する。狭い机の上に、タイムカードや領収書のコピーや物品購入届やら有休申請書やらセクハラの相談メモやら何やらが散乱している。きみ子の仕事はこれらを無感情に冷静にさばき続けることである。特に難しいことでもないし、辛いことでもない。それに加えて一定数の電話応対をし、来客にコーヒーを出し、社員の愚痴を聞いてやる。淡々とそれらをこなしてゆく。給料は安いが残業はあまりないし、土日祝日も大体休める。満足もせず不満ももたず働き続けて、気がつけば三年が経とうとしていた。きみ子はそのうち学生時代からつき合っているコーヒーショップの店長をしている彼氏と結婚して家庭に入るのだろうというどこか他人事のような気持ちでこの先の人生を想像していた。そのことを嬉しいとも悲しいとも思わなかった。きみ子はいつもそんなぼやけた感じで生きていたので、つまらない奴だ、とよくけなされた。そのたびきみ子は思うのだった。本当にその通りだ。でも、私はそうなる運命だったのだ。きみ子はそういう時、パソコンの画面にうっすら映り込む自分の顔のシルエットを見つめながら思うのだった。別に他人にとやかくいわれる筋合いはない。私が自分のことを、一番よくわかっているのだから。これくらいの人生が、私の丈によく合っているのだと。
だから突然、彼氏の尾田君から別れを告げられた時も、きみ子は空になったコーヒーカップを見つめながら、ああ、そう、仕方がないね、と気の抜けた調子で言った。閉店後のカフェの隅っこの席の頭上で、小さな豆電球が風に揺れていた。尾田君は同い年で、大学の卒業コンパで知り合った人の良いまじめな青年で、きみ子のことをとても大切にしてくれた人なのに、今はまるで遠い異国の人を見つめるような冷めた目で、きみ子をぼんやりと見つめながら言うのだった。僕は、やっぱりそんな風に君が反応するのではないかと思ってたよ、と。「じゃあ泣いてみたらよいの。」きみ子は半ば自嘲気味に答えた。好きな人ができた、と冷め切った眼差しで告げる恋人に、いい年こいた女が泣きついたって仕方がない。尾田君は困った顔をした。昔はかわいいなと思っていたけど今はすっかり見慣れてしまったチャーリーブラウンみたいな困り顔。
「きみ子は変わってしまったよ。」尾田君は半分責めるように、半分は哀れむような調子で言った。全ての原因がきみ子にあるのだと言いたげな顔で。
「えりちゃんは違うものね。」
きみ子は顔をあげて尾田君を真正面から睨んだ。それから店内を厳しい目つきのまま見渡した。ゴールデンレトリバーを連れて夕暮れの海辺を歩くサーファーの写真や、読まれることのないであろう英語のぶ厚い小説や、えりちゃんが毎日手書きで描き続ける日替わりのおすすめメニューのイラスト。ありふれたカフェ。ありふれた男。私にちょうどいいと思っていたのに。ありふれたものがどれだけ大切なのか私の方が何倍もえりちゃんより知っているつもりなのに。
「比べてるわけじゃないよ俺は。」
尾田君は自惚れた様子に見えた。何をえらそうに。変わったのはそっちじゃないの。きみ子はそう言いたくなるのをぐっとこらえる。昔はそんなかわいくない口を聞く男じゃなかった。無理な背伸びなんかしないで、一緒にマックのポテトを食べながら沢山笑いあうことができたのに。今はもう違うんでしょう。イラストレーターになる夢を追いかけてる若い女と、おしゃれなレストランに入り浸るんでしょう。
「私は変わったんじゃない、ただ成長しただけ。」「成長ってなんだよ。つまらない人生を受け入れること?」「違う、自分がどこまでできて、できないかがわかったから、私はこうして自分に合った生き方を選んで生きているだけ。」「そんなの言い訳だろ。」「ねえ、あんたばかなの。いつまでそうやって子どもみたいな考えで生きていくの?そうやって、自分の考えを他人に押しつけていたら、えりちゃんにだって捨てられるよ。」「ちがう、俺はただ」バン、と鈍い音を立てて尾田君が机を叩いて、きみ子は一瞬身を固くした。こんな風に怒りをむきだしにする彼を見たのは初めてだったので、きみ子は随分驚いていた。同時に、目の前のこの人は、自分の思っている以上に、自分を好きでいてくれたのかもしれないと思った。
「…きみ子があんまり楽しそうじゃないから」 彼の言葉は弱々しくて、気の毒だった。きみ子は押し黙った。陽気なジャズが二人の隙間へ無邪気にすべりこむ。春のはじめのやわらかな風が尾田君の前髪を心地よさそうに揺らした。自分の頑丈な中身のない岩のようなプライドが目の前にあった無条件の優しさをつぶしてしまったのかもしれないと思った。でもどこをどうすればよかったのかきみ子には分からなかったし、それでもやはり自分は間違えて生きてきてしまったのではないと信じていた。
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