第5話 言葉の湿度

「相手の事をもっと知りたくなるって感じかな?」

 彼女は長いまつ毛を瞬かせた。

「でも知りたいってことだけが恋じゃないでしょう? 人に興味がわくことは日常的にだって起こりえるものね?」

 僕は確かにそうだとおもった。憧れのスポーツ選手の日常生活が気になるのと恋とは必ずしも同じものとは言えない。僕は彼女の納得するような説明ができるか自信がなくなってきた。

「そばにいたくなるっていうのはどうかな? その人とできるだけ近くにいたくなる。」

 彼女は肘を膝について顎を手で支えていた。雨の音が弱くなってきた。

「つまり恋は二人の距離の問題でもあるってこと?」

 眠たそうな目をして彼女は顎を動かした。

「二人の距離とその時間の問題かな?」

 それは数学の問題のように思えた。二人の距離とその時間を求めなさい。

「あなたは私のそばにできるだけ長い時間居たいってこと?」

「そ、そうなのかもしれないね。」

「じゃあ、あなたは私の家まで着いて行って同じ家に住みたいと思っているのね?」

「そこまでは......。まだよく瀬田さんの事よく知らないし......。」

 僕は彼女がどこまで本気でこんなことを言っているのかわからなかった。もしかすると、僕はからかわれているのかもしれない。

 雨はほとんどやんだようで、小さい窓から光がさした。彼女は何か考えているようだったか、それをやめて立ち上がった。そして僕の隣に間を開けないで座った。僕と彼女は見つめ合った。僕は息が彼女にふれないように、静かに呼吸した。彼女の円い瞳に瞳孔が透けている。唇は赤に少し紫が入っていた。光が当たった頬は羽毛布団のぬくもりを感じさせた。彼女の眼がかすかに動く。

「今、私がそばにいるから嬉しいの?」

 彼女は真顔のまま表情を変えずに僕に聞いた。

「嬉しい......のかな?」

 鼓動の音が体の外にも響き渡りそうだった。外ではセミが活動を再開し始めたようだ。

「私はあんまり嬉しくならないわ。」

「瀬田さんは僕に恋をしてないようだね。」

 僕は彼女に調子を合わせて言った。

「さあ、どうなのかしらね。人によって恋の仕方が違うってこともあるんじゃない?」

「あの、少し離れてもらえないかな?」

「あら? あなたはこの方がいいんじゃなくって?」

「それにしても近すぎるっていうか......。」

「そう。」というと彼女は立ち上がって、リュックに手を掛けた。

「私、帰るから。」

「ごめん、気を悪くしたかな?」

「何が? 帰りたくなったから帰るだけよ。」

「そう。じゃあね。」

 彼女は階段を下りて行った。僕は深くため息をついた。


 僕は校門までの並木道を空を見上げて歩いた。さっきまでの雨が嘘だったかのように青空が広がっている。彼女を少し探してみたがもうどこにもいなかった。

「変わってるよなぁ。」僕は心の中でつぶやいた。しかし、それが僕の好奇心をさらに震わせた。彼女はほかの人ともああいう接し方をするのだろうか。場合によっては勘違いを招く言動だ。雰囲気。ひとによって接し方をかえているのだろうか。

 僕は無意識のうちに水たまりを思いきりよく踏んでいた。薄いズボンに水が染みた。木の枝葉と空を移した水面に波紋が広がる。彼女は僕をどう感じているのだろう。いくら考えてもそれは想像でしかない。僕は考えるのをやめて、足を急がせた。


 僕には兄弟がいない。

「ただいま。」僕の声の後には沈黙しかない。両親は仕事に出かけている。時計を外し洗面台の蛇口をひねる。冷たい水をしばらく手に流していると、鏡に僕の顔が写っていた。昔に比べると身長が伸びたせいで、鏡に映る顔の位置が変わっている。僕は僕のはずなのに顔つきもどことなく大人びてきている。少し前までの僕はいったいどこへ行ってしまったんだろう。僕はまだ高校生だ。成長過程であって当たり前のことだ。僕は顔を洗って、丁寧にタオルで水気をふき取り、湿った制服を着替えた。

 冷蔵庫を開けると麦茶が作ってあったので、大きめのグラスに半分注いで二杯飲んだ。冷凍庫には輪ゴムにまかれた冷凍食品の袋がいくらかあるだけだった。

 僕は自分の部屋のドアを開ける。枕もとのリモコンでくらーのスイッチを付ける。部屋は今朝のまま片付いているわけでもないし、片づけるほどモノであふれているわけでもない。僕は昨日読んでいた小説の続きを読み始めた。壁掛けの時計が脈を刻むように、秒針を動かす。


 僕が初めて本に興味を持ったのは、小学生の頃だった。それまではどちらかというと読み書きは好きではなかった。

僕は放課後、暇を持て余していたのでふらりと図書室へ入った。なぜその時図書室へ足が向いたのかは覚えていない。図書室には司書のおばさんと数人の本を選ぶ生徒しかいなかった。僕は本を探すわけでもなく、図書室の本棚を眺めていた。ふと、読書用の長机に目をやると、一冊の本が置かれていた。長机には誰もいなくて、その本は戻すのを忘れられているらしかった。日に焼けた薄緑色の表紙にふれてみる。布のような手触りがする。あまり新しい本ではないようだった。気付けば僕はそこに座りページをめくっていた。

 動物の町の動物たちが、自分たちの町をよくしようと会議をする内容のおはなしだった。そのときの僕は文字だけの本など興味がなかったが、ページはどんどんめくられていった。動物たちはそれぞれの言い分を率直に言い合っていた。

「もう遅いから、帰りなさい。」

 僕の後ろで声がした。窓の外を見ると、日がもう沈みかけている。僕は司書のおばさんに無言で本を渡すと足早に図書室から出た。

 僕はそれから図書室に行くたびに、その薄緑色の本を探した。題名は覚えていなかったので、その日に焼けた表紙だけが頼りだった。結局、僕は小学校を卒業し、動物たちの町がどうなったのかを知ることはできなかった。その代わりに僕は図書室によく行くようになったし、本も人並みに読むようになった。

 

 僕は気がつくと眠りに落ちていた。文庫本が開いたまま伏せてある。外はすっかり夜に染まっていた。禁ジョンの家のカーテンから光が漏れているのが見える。階段の下から母親の声がした。それに応えるとぼくは本を本立てに戻し、クーラーの電源を落として部屋を出た。




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