第3話 目に映るもの

 昼休み。授業から解放された生徒たちの声で、教室も廊下もにぎやかな話声に満たされる。僕は昼食を買いに廊下へ出た。彼女のクラスの教室を歩きながら覗いてみたが、彼女の席には誰もいなかった。

 購買部は一階にある。僕は渡り廊下を渡って理科室の前を通る。こちらからでは遠回りになるが、たまにこの静かな経路をたどることにしている。階段の前まで来ると上の階からピアノの音が聞こえてきた。初めて作った生煮えの卵焼きみたいなかわいらしい演奏だった。ピアノの音は途中で途切れて聞こえなくなった。女子生徒が二人、会話をしながら降りてきたので僕は階段を下った。

 購買部の前にはいつものように長い列ができている。僕はその最後尾に並んだ。ポケットに入っている飴と小銭を指でもてあそんでいると、後ろから純の声がした。

「よお、昼はパンか?」

「うん。」

 するとわざとらしく僕の肩に腕を掛け、小さな声になった。

「朝の、どうなった?」

 僕は咳ばらいをして肩から腕を外した。

「瀬田さんって知ってるか?」

「瀬田美月か? あの美人?」

「知ってるの?」

 列がゆっくりと動いて行く。

「お前も今までノーマークとは疎いねえ。まあ俺のタイプじゃないけどな。話したことはないけど、噂くらいは聞くぜ。」

「噂って?」

 列が動き、順番が来た。

「これと、これ。一つずつ。」

 純は焼きそばパンと中身に何かが入っていそうな、まるいパンを頼んだ。

「僕は、ええと、シナモンパンとピーナッツパンお願いします。」


 純は僕の席の前の椅子をこちらに向けてパンと水筒を置いた。ただでさえ小さい机のスペースがさらに分割される。

「サッカー部の先輩と話してるのを見たとか、同級生の男子をを振ったとか。まあそこそこモテるらしい」

 そう言って純は焼きそばパンをほおばった。

「ふうん。」

「で? お前は好きなの? なんなの?」

 焼きそばパンは抵抗する間もなく純に吸収されていく。

「うん。きれいだなって。」

 僕はさりげなく言ったつもりだったが、耳が熱を持ち始めているのがわかっていた。

「朝は? 会えた?」

 純は容赦なく僕から情報を得ようとする。こういう些細な人間関係や噂が好きな奴なのだ。

「飴もらった。あげたから。」

 純の動きが一瞬止まった後、大声で笑い出した。椅子が何回か後ろへ傾き音を立てる。 

「あんまり笑うな」

「だって、おもしろいだろ? 物々交換みたいで。愛のしるしにこの飴を」

 純は胸に手を当てて飴を差し出すポーズをとって見せた。

「そんなんじゃないよ」

「原田どうしたんだ?」

 純の友達が数人やってきた。僕とはあまり親しくない。

「いや、こいつが面白いこと言うからね」

「え? 何?」

「秘密。」

 純はいたずらっぽい顔をして口の前で指を交差させた。

「なんだよ秘密って。 ねね、黒川教えて?」

「秘密。」

 僕も指でばってんを作った。

「えー。 なんだよぉ……。」

 数人はつまらなそうにして教室から出ていった。

「だから、あんまり大声出すなっての。」

「恥ずかしいんだ。黒川くんはずかしんだ。」

「気持ち悪いな……。」



 帰りのホームルームが終り、黒板を急いで消す。丁寧に描かれた白い文字が深緑色の波にのまれていく。チョークをきれいに並べて白っぽくなった手をはたく。

「黒川、今日は早いね」

「ちょっと用事があってね」

 僕はそういうと鞄を手に取り、教室を出た。


 屋上への階段を足早に上る。鉄製のドアの前で立ち止まって一息つく。ゆっくりとドアを開けると定位置に彼女はいた。

 大して興味もなさそうにこちらをちらっと見た。僕は前と同じように彼女の隣に腕を掛けた。彼女はイヤホンを外さずに遠くを見ている。長く黒いまつ毛と、すっと通った鼻が水辺に立つ足の長い鳥を思わせた。彼女がこちらの方を見て「何?」というような顔をした。

「どんな曲を聴いてるの?」

 瀬田さんは聞こえなかったようでイヤホンを外した。

「どんな曲聴いてるのかなって?」

「ああ。聴いてみる?」

 イヤホンの片側が差し出された。僕は戸惑いながらもイヤホンを軽く耳に着けた。

僕は涼しい新緑の中にいて、そばには滝が流れている。滝つぼの中にそっと素足を踏み入れてみる。目を開けるとピアノと弦楽器の音がした。

「なんて曲? きれいな曲だね。」

 特に僕には音楽の知識がなかったので、平凡な感想しか出てこなかった。彼女は難しい英単語をそっと並べて、「確かにきれいな曲ね」といった。そしてイヤホンの頭を耳にもっていく。

 「あのさ」

 彼女は目をパチッと開いてこちらを見た。

 

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