第2記 記憶喪失

 紗倉は朝早くに目を覚ました。一階から人の足音に扉を開ける音等が聞こえてきたからだ。

 冴えない思考で初めは母が帰ってきたのだと思ったが、足音に迷いがある。これは母ではない。恐怖に身を起こし物音に耳を澄ませる。水の流れる音を聞いたとき紗倉は意を決しカッターを手に一階へ降りると、人の気配のする洗面所に刃物を振りかぶり飛び込んだ。


――何が起きたのか、気が付くと背後から腕を摑まれ首元にカッターの刃先を向けられていた。体を強張らせふと視線を洗面台の鏡に向けると鏡の中の彼と目が合いようやく昨夜の出来事を思い出す。

 そう、今紗倉を捕まええているのは昨日家に連れ込んだ男だ。


「離して?」


 震える声で訴えかけるが、襲い掛かった相手を簡単に放すはずがない。が、意外にもすんなりと放してくれた。彼を見ると意に介さない様子でカチカチとカッターの刃を縮めている。


「これでどうしようと?」


綺麗な紫の瞳が紗倉に問いかけた。まじまじと彼の顔を観察していると、グイっと迫りのぞき込んできた。


「ぁ。ご、ごめんなさい。空き巣かと思って……」


「こっちは気が付いたら玄関で寝てた訳だけど」


彼は表情一つ変える様子もない。

 取り合えず紗倉は非現実的なことを省き昨夜の事を説明する。


「で、倒れてる君を家に――」


 そこで彼が初めて表情を変えた。目を細め疑いの視線を紗倉に向ける。


「本当は何があった?」


「その……逃げてる時に君が空に空いた穴から落ちてきて」


 彼は更に問い詰めるが、疑う様子もなく下校中に起きた話を聞いていた。

 紗倉自身、自分の見たものを信じ切れていない。彼も信じてはいるがきっと幻覚でも見たのだろうと思っていると思った。


「そうか……」


「うん。怪我は大丈夫?何処か痛むところとか」


 平気だと言うが擦り傷が痛々しい。「頭とか打ってない?」そう聞くと彼は暫く考えこみ口を開く。


「打ったかも。それより、ここに連れて行ってほしいんだけどいい?」


そう言って紗倉に住所の書かれた紙を差し出した。スマートフォンで調べればと思いつつも了承したが、彼をそのままのボロボロの姿で外に出すわけにはいかないので綺麗にするようにと浴室に押し込めた。

 朝食の用意をしようと思い廊下に出ると二階の自室から目覚ましのベル音が響いてきた。

 完全に忘れていた。今日は平日、休日じゃない。いつもより早く起きたせいかすっかり休みの日モードだった。外にいて聞こえるほど煩いので近所迷惑になる前にさっさととめる為自室に戻った。


 浴室に押し込められた彼は仕方なく衣服を脱ぎ、言われた通り体を洗う。

 見知らぬ風呂場でシャワーを浴びている。何気なく使ったが、知らない人のシャンプーやリンス、ボディーソプを使うのはなんだか変な感じがする。

 一通り洗い終わり浴室から出て置かれていたタオルで水をふき取る。ふと目に付いた洗面台の鏡に移る自身の顔をじっと見つめた。別に見惚れているわけではない。ただ、自分なのだと確認をしたかった。


「ちゃんと自分の顔……」


変えの服がないのでバスタオルと一緒に用意されていたバスローブを着てリビングらしき扉を開けた。しかし、そこには誰もいない。


「二階か?」


 人の家を無闇に歩き回る訳にもいかないのでリビングで待とうとした時、扉を叩く音が聞こえてきた。音の大きさに尋常じゃない焦りを感じる。

 急いで二階へ上がり叩かれる扉を開けた。勢いよく飛び出してくる紗倉を避ける。


「ぐえっ」


 開いたとき受け止めてもらええるものだと思った紗倉は踏ん張る事ができず床に倒れこんだ。


「な、何で……助けてくれないの……」


「俺が見た限り今君は助かってる」


彼は部屋の中を覗き込み安全を確認するので紗倉は慌てて視界を遮りに目の前に出た。


「ぁあああ!!だめだめだめ!見ちゃダメ!」


「何で」


「わ、私の部屋だから!」


 違う。散らかっているからだ。他にも理由はあるが大きな理由がそれだ。

もう一つの大きな理由はしっかり管理された女子の部屋は性欲を燻る香りがするから。別に燻られてくれれば相手は関係なく嬉しい。自信がもてるという意味で。

 彼は訳が分からないという顔をする。


「とにかく、だめなの!嫌なの。はい、これ着て。あなたなら着れると思うから」


 これ以上話さなくていいように用意した服を押し付けた。押し付けられた彼は紗倉の服装を見る。制服を着ているので多分。


「……学校にでもいくのか?」


「えっぁあ!い、急がなきゃ」


 急ぐ紗倉の腕を掴みとめた。


「え?」




 紗倉は遅刻することに深いため息をつき学校への道を歩く。隣を歩く少年は同じ高校の男子用の制服を着ていた。


「これ、サイズが……」


「仕方ないでしょ。お兄ちゃんの制服なんだから」


 彼が自分もついて行くというので彼の提案通りに制服を用意した。今は離れて暮らす兄の制服で青い学年を表す線が袖にある。生徒ではないとバレても知らないとは言ったものの、内心バレたらとおびえていた。

 制服もサイズが明らかにおかしい。彼の背丈が低いことに問題があるのだが。髪に関しては禁止されていないので大丈夫だろう。綺麗に染めている人も居たはずだ。

 彼は思い出し、さっき扉を叩いていた理由を聞いた。


「それは。開ける方向間違えて焦っただけだよ」



 学校につくと二人は教師の目を盗んで校内に入り昨日の給湯室に入る。


「教室はだめなのか?」


「当たり前じゃん。さすがにばれるよ」


何百人もの生徒の中ならバレないだろう。


「いい?絶対に休み時間以外出ちゃダメだからね」


「お腹すいたときは?」


「それは……あとで持ってくるよ食べ物」


 紗倉は彼にくぎを刺し急いで教室に向かった。


「俺は犬か……」


 付いてきたのは彼だ。


 座敷の段に腰掛け持っていたものを広げる。画面の割れたスマートフォンを手に持ち起動を試みるがやっぱり壊れている。


「レゲイン・リフレインか」


自分の顔写真が貼られたパスポートの名前を睨みつけた。これが自分だという実感が薄くて怖くなる。

 彼には玄関で目覚めた時からここに来るまでの記憶しかない。ここに書かれた事が自分の事だということは分かるのだが、突然付けられた名前のように感じる。袖を捲り擦り傷だらけの腕を撫で今朝聞いた話を思い出す。紗倉とは違い昨夜の出来事をそのまま信じていた。彼女が見たものは幻覚などではない。


「光の矢――っ!?」


 彼は突然立ち上がった。給湯室の前に誰かが立ちこちらを大きな黒い目でみているのが見える。じっと。光のない深い闇が睨みつけてくる。目を合わせていると頭の中に針を刺すような痛みが走った。


「うぐっ……何だっ何で」


 扉に飛びつき勢いよく開けた。が、そこには誰もおらず頭痛も引いた。肩で息をしながら廊下を見渡す。振り返り扉を見るが、特に異変は無い。


「人じゃなかった……」


「何が人じゃないって?」


 背後から声を掛けられ驚いて硬直すると、頭に手を置かれる。


「いやぁ、金髪女子がこの俺が部長を務める部活に入部希望だなんてな」


 その手を払い相手を見る。彼よりガタイもよく背も高い男子生徒だ。小柄で細身の彼が男子の制服を着た女子生徒に見えたらしい。振り向く彼の顔を確かめるように見回す。


「ん?んー?お前……」


 当たり前のように彼の胸を確認するため手を当てた。次の瞬間その男子生徒は腕を背に回され床に押さえつけられた。


「な、なにすんだよ、男ならいいだろ」


「よくないからこうなってる」

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