第2話 喪失
十五歳をむかえて二年が経った。学校と自宅を往復するだけの生活の中で、わたしの感情は安定的とはいえなかった。わたしは幼い頃から、自分の身体より少し大きいだけの箱の中で生きているような窮屈さを感じていた。その窮屈さはわたしの人格を内向的なものにしたし、そんなわたしを育てなければならない義務を背負った両親は、ことあるごとに哀願のまなざしをわたしに向けるのだった。
十五歳になり、エモーショナル・コントロール適用に関する説明会へ出たとき、わたしを覆う小さな箱の正体はサルースなのだと確信した。わたしに意識が芽生えた時、すでに体内にいたそれを当たり前のものとして受け入れるには、わたしは無垢すぎた。
そしてわたしは、周囲の強い反対を無視してエモーショナル・コントロールを拒否した。生まれて初めて、わたしはわたしに対して大きな決断を下した。
わたしには、友だちと呼べる存在がほとんどいなかった。けれど、いまは違う。高校一年生のとき、後に友だちと認識できる人と出逢った。名前は赤沢恭子といった。わたしたちは、まるで十年も前からの旧友であったかのように、自然と引かれ合って同じ時間を過ごした。きっかけといえば、偶然帰り道が同じだった恭子が何の気なしに話しかけてきたことだった。そのときの会話はもう覚えていないが、どこか心地よかった気分だけは覚えている。家が近所だとわかった後は、必然的に一緒に登下校するようになった。学校では出来るだけ一緒にいられるように同じ科目を選び、同じ先生を選び、同じ教室を選んだ。クラスという固定集団がなくなった現在の教育現場では、一人ひとりが自主的に授業プログラムを組んで勉強する。わたしも勉強は不得意というわけではなかったが、恭子はどんな教科でもトップクラスの成績だったため、よく苦手な科目を教わったりした。わたしは恭子以外に友だちという存在はおらず、恭子もわたしのほかに親しい人もいない様子だったので、わたしは、どこへ行くにも遠慮なく恭子の横を歩いた。
ある日、恭子が風邪で学校を休んだ。ひと昔前と違って、風邪で学校を休むというのはとてもめずらしいことだった。わたし自身、十七年間生きてきて風邪というものを経験したことがなかった。なんのためのサルースだ。学校の帰り道、わたしはしばらく抑えていたサルースへの嫌悪を開放し、自分の身体に向かって「ばか、役立たず」と罵った。その日、わたしは久しぶりにひとりで家路についた。ひとりで見上げた曇り空は、やはり小さな箱のように見えた。
恭子は、次の日もその次の日も、一週間以上経っても学校へは現れなかった。風邪とは学校を十日も休むほどの重病だったろうか。無知なわたしは、インターネットで調べたり両親に訊いたりしてみたが、疑義は深まるばかりだった。不安な気持ちになるたびに、サルースはおせっかいなアラートを眼前に表示させた。何度も何度も赤い文字を。繰り返し、繰り返し、執拗に。
恭子が高度特別医療施設へ入院したと知らされたのは、恭子が学校を休み始めてから十五日後のことだった。学校関係の通知は基本的に個人の拡張現実レンズへ表示される。わたしのレンズにも、その知らせは届いていた。
<赤沢恭子さんは現在入院しているため、しばらく学校へは来られません>
サルースのいつものアラートよりも遥かに小さな文字で表示された文面を見て、わたしはとても、とても不快になった。しかし同時に、エモーショナル・コントロールを許可すれば、こういうときでもわたしは前向きな気持ちでいられるのだろうかと考えた。
翌日、いつもより長く感じた学校が終わると、わたしは恭子のお見舞いへと走った。目的の施設は、学校から約2キロの場所に重々しくそびえ立っていた。事前に恭子と位置情報を共有していたので、導かれるまま迷うことなく辿り着くことが出来た。ドアを開けた瞬間に、その愛らしい姿が確認できた。わたしはおもわず「恭ちゃん!」と叫ぶように呼んだ。
「美鈴ちゃん、わざわざありがとう。心配かけてごめんね」
高揚するわたしとは正反対に、恭子はとても冷静にわたしを迎えた。恭子の上半身には医療機器らしきものが無数にその華奢な身体を取り巻いていた。布団で隠されてはいるが、下半身も同じような様子だった。
「恭ちゃん、風邪じゃないの?」
熟考なしに訊いてしまったことを、わたしは瞬間的に後悔した。しかし、恭子はわたしの質問に対して、あらかじめ用意しておいた原稿を読むように答えた。
「ごめんね、本当は風邪じゃないの。いずれこうなるから言わなきゃって何度も思ったんだけど……わたし難病を患ってるの。サルースのおかげで病気自体はずいぶん減ったんだけど、難病を治すことはまだできないんだって」
恭子からの言葉を整理しようと必死なわたしの口から「難病……」と独り言のように言葉がこぼれ落ちた。難病とはどういう病気だったか、わずかな記憶の断片をかき集めてみる。
「だから、もう学校へは行けないの。ここでしばらく治療して――」
「治らないのに? 治らないのに治療ってどういうこと? まさか恭ちゃん、死んだりしないよね」
思わず言葉を投げつけてしまった。恭子は少し驚いた表情を浮かべていた。
「ごめんごめん! 死なないよ! そういう病気じゃないから。ただ、外出とかは難しくなると思うんだけど」
布団を両手で強く握りながら恭子は言った。うつむいていて、その表情は見えなかった。
「そっか。ごめんね、変なこと言って。迷惑じゃなかったら、わたしまたお見舞い来るから! 恭ちゃんが動けないんだったらわたしが行かないとね。勉強とかも、今度はわたしが教えるから大丈夫! なんにも心配いらないよ」
「うん、ありがとう」
涙ぐみはじめた恭子の両目を見て、わたしは今日のところは帰ることにした。
病院から自宅までの道すがら、わたしは自分の身体に向かって「ほんと役立たずだな、難病ぐらい治してみせろ」と悪態をつき続けた。
恭子が、あの病室で静かに息を引き取ったのは、それからわずか一ヶ月後のことだった。
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