負の感情

こう

第1話 世界の仕組み

 わたしの身体に人工物が埋め込まれていく。それは、まだわたしがわたしを認識する前、わたしがこの世界ではじめて鳴いてから、わずか一一〇秒後の出来事。

 特殊な注射器で挿入された”それ”は、血流に乗ってご機嫌にわたしの中を這いずり回りはじめた。自我が宿ったときには、当たり前のように”それ”はわたしの中にいた。


 相川美鈴。これがわたしの名。

 サルース。これが”それ”の名。


 サルースは、この国の全国民の身体の中を回遊し、体内状態を常時監視している。その正体は、健康維持・管理を目的とした、人間の体内に直接取り入れるタイプの微生物型ナノデバイス。まだ名もなき赤子が聖なる産声を上げている最中、ひとりの例外もなくサルースは挿入される。

 

 サルースは、搭載された無数のバイオセンサによって二十四時間休むことなく、心拍数や血圧などのさまざまなバイタルサインを記録・分析している。正常値から乖離した数値を検知すると、両目へ装着を義務付けられている拡張現実レンズを通して各人の視界にアラートが出現する。この段階では、アラートを受けた各人が自己判断で対応をおこなう。もし、健康上重大な問題が検知された場合は、適当な各医療機関に直接データが送られ、すみやかに予防治療を受けることが義務付けられている。

 

 サルースの全データは、中央政府機関内にあるスーパーコンピュータ群(通称マザー)に送られ、膨大なデータをリアルタイム解析している。マザーは常時サルースと連携し、人々の身体をやさしく守っている。

 

 病気の駆逐にもっとも貢献しているのが、サルースの大きな役割である画期的な薬物伝達技術『ドラッグ・デリバリー・システム』(通称DDS)。マザーからの信号を受けたサルースが、異常検知された病変部に適切な薬を直接届けるという技術。DDSにより、薬の効率的な使用が可能になり、さらに従来は不可避だった薬による副作用が大幅に減少した。

 

 現代社会の医療技術は、サルースによる体内情報収集とマザーによるビッグデータ解析、そしてDDSによって、病気は”治療するもの”から”予防するもの”へとシフトした。人々はただ生活しているだけで、サルースが適切な予防措置をおこなってくれる。このパラダイムシフトが起きてから、人々の病気に対する意識は大きく変化した。

 


 ――と、ここまでが、わたしがサルースに対して肯定できる面。そして、生理的な嫌悪を覚えるのは、サルースのもうひとつの機能。


 サルースのもうひとつの重要な役割(わたしにはこっちが本命だと思われるが)、それは人間の”感情”のコントロール。


 サルースが実用化への道を快調に進むなか、ある研究チームによって、神経伝達物質の働きがほぼ解明され、人間のあらゆる感情を神経伝達物質によって定義できるという論文が発表された。研究は大きな障壁なく順調に進み、いまでは怒りとはなにか、悲しみとはなにか、愛とはなにか、すべて神経伝達物質による脳内現象で説明できるようになった。 

 

 すると、世間の関心はある方向へと流れていった。この研究をサルース医療に応用すれば、人間は不幸という感覚から自由になれるのではないか、という考えだ。

 

 世論に流されるようにして応用研究が進んだ結果、サルースには新たな役割が与えられた。それが『神経伝達物質制御』(通称エモーショナル・コントロール)。マザーから該当者のサルースに信号を送り、体内の特定部位を刺激することによって、特定の神経伝達物質が放出される。神経伝達物質自体は日常的に放出されており、その量は身体が自然にコントロールしている。それをある程度、意図的に制御して感情の安定を保つという手法だ。

 

 人間の感情はさまざまだが、エモーショナル・コントロールの対象となるのは不安や恐怖、苛立ちなど”負の感情”と定義されたものに限られた。そういった感情を検知したときのみ、対象感情を緩和するためセロトニンやドーパミンなどのモノアミン神経伝達物質の放出がおこなわれる。放出量や頻度など、細かい制御はサルースの情報を分析したマザーによって決定される。その決定内容が本人に提示され、本人了承プロセスを経ると即座にエモーショナル・コントロールが開始される。

 

 この技術の実用化に関する新法案が意思決定機関で可決されるのに、そう時間はかからなかった。そうして、いまおこなわれているように十五歳以上の全国民に対して、エモーショナル・コントロールの選択的適用が決まった。ある思想をもつ個人や組織には拒否する動きもみられたが、現時点で適用人口の八割を超える人々が、自分の感情が意図的に制御されることを許可している。



 西暦二〇五六。

 サルース医療が義務付けられてから今年で二十三年。この国はさまざまな面で立ち直ったといえる。GDP・GNH(国民総幸福量)の向上、自殺率・犯罪率の低下、出生率は2.0を回復、さまざまな統計データがその実感を人々に与えてくれる。これが、人々の”負の感情”を制御した結果かどうかは判断がわかれるところだ。


 社会は良くなった。それも劇的に、したたかに。人々も統計的には幸福になった。かつて、少しずつ身体を削られるようなぼんやりとした不安の中にあった社会はその姿を変えた。どこにでもいた、半ば死んだような顔をぶらさげて街を足早に駆けていた人たちは消え去り、しっかりと前を見据えていまにも微笑みだしそうな表情で堂々と歩く人たちへと変わった。

 

 そんな前向きで健全な社会の只中で、今日もわたしは呼吸する。

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