第3話 負の感情

 唯一の友だち、いや親友の死から半年が過ぎた。あの日から、わたしの時計は逆回転を始め、いつかの内向的で窮屈だった世界へと回帰した。ひとときのことではあったが、わたしは世界の憎み方を忘れていたらしい。死なないと言っていた親友は死んでしまったし、病気を予防するはずのサルースは予防できなかった。こんなにもみんな健康になったのに。こんなにもあっさりと、泡がパチンと弾けるように命が消滅してしまった。わたしの命ではなく、わたしにとっての大切な命が。

 それから、わたしは自然と自傷行為をするようになった。

 

 ――もうなにもかもがどうでもいい

 

 そういえば、昔もこんな気分だった。すっかり忘れていたホンモノの気分。誰にも共有させないわたしだけの気分。そういえば、恭子はエモーショナル・コントロールを許可していたのだろうか。わたしたちは、不思議とそういう話を一度もしたことがなかった。もしみんなと同じようにやっていたとしたら、死の間際の恭子の気持ちはどんなものだったのだろうか。”負の感情”というものがなくなれば、死ぬことは怖くなくなるのだろうか。わたしは、そうであればいいな、と心から祈った。


 ひとりの登下校にはすっかり慣れた。この通い慣れた道も、もともとずっとひとりきりで歩いていたような気さえする。恭子という人間が本当に存在したのかどうか、わたしが創りあげた架空の存在ではなかったのか、そんなことを真剣に考えるようになっていた。     サルースからは毎日執拗なまでにセラピーやメンタルケアを勧められる。とても優秀な機械だ。わたしはいま、確かに病んでいるのだろう。いや、赤ん坊の頃から病んでいたのだろう。病んでいないわたしなどわたしではない別の誰かだ。病まないことなど許されるものか。わたしは”負の感情”をすべて引き受けて生きる。生き続けてやる。

 

 いまのわたしはかつてないほど、生に執着していた。自傷行為も死なない程度に慎重におこなった。人体について網羅的な勉強をして、どの部位をどれくらい傷つけると人間は死に至るかを知った。生きるためには、死の基準を知る必要があった。そうして、わたしは洗練された華麗な自傷を極めていった。


 ある日の晩、いつものように自室で自分の身体を傷つけて遊んでいると、見慣れな

いアラートが視界いっぱいに表示された。


<重要:エモーショナル・コントロールの強制適用について>


 虚ろな目で詳細に目を通した。どうやら、わたしの精神状態が著しく悪いため、本人の了承プロセスを省略してエモーショナル・コントロールを開始するという内容だった。両親にも同様のメッセージが届いていたようで、久しぶりに家族全員でテーブルを囲んだ。そして、父親からこれがどんなに良いことかを滔々と説明された。それは、これまで幾度となく聞かされては耳から耳へとすり抜けていった言葉たちだった。父親の隣で母親は泣いていた。それは嬉し涙なのだろうか。わたしは、母親がなぜ涙を流しているのか、さっぱりわからなかった。

 

 開始されるのは明日の朝から、という決定だった。緊急を要していることならば、なぜいますぐではないのか理解できなかったが、とにかく明日の朝までは悲しみや怒りをちゃんと感じられる。実際、神経伝達物質の放出によってどの程度”負の感情”が抑制できるのか疑問だった。両親や周囲の人々は、悲しみや不安が完全にゼロになるという感じではないと、判然としないことを言っていた。ではどれくらい軽減されるのだろうか。半分くらいだろうか、それとも三割くらいだろうか。いずれにせよ、ホンモノの感情ではなくなるんだ。割合なんてどうでもいいことだと、わたしはそれ以上考えるのをやめた。

 

 両親からのご高説をうまく聞き流し、お風呂を短めに済ませると、勢いよくベッドへ潜り込んだ。目を閉じると、わたしがはじめてお見舞いに行った日の恭子の姿が浮かんできた。あのとき恭子は「死ぬような病気じゃないから」と言った。あれは本心だったのだろうか、それともわたしへのやさしい嘘だったのだろうか。恭子が、たとえわたしのためだったとしても嘘をつくとは思えなかったが、自分が恭子の立場だったらどうしただろうかと考えると、急にわからなくなった。恭子のことを考えると、やはり悲しい。悲しみとはこういうものなのだと、よく分かる。そしてサルースのことを考えると、やはり怒りがこみ上げてくる。これが、わたしの正真正銘の”負の感情”だ。愛おしいほどのこの感情が、明日の朝から永遠に歪められてしまう。そう考えた瞬間、急速に自分の中で焦りが生じた。わたしは布団を乱暴に蹴飛ばし、飛び起きた。

 

 ――絶対にわすれてはいけない

 

 いま、わたしが確かに感じているこの感情を絶対にわすれてはいけないんだ。わたしはガラクタ置き場になっている押し入れの襖をを力任せに開けて、紙とペンを探し始めた。すっかりオールドメディアと化した紙とペン。日常生活で使用することはまずない。わたしはB4サイズのノートと数本のペンを乱暴に取り出した。そして、思うままに文字を刻み始めた。恭子を想い、サルースを想い、両親や学校や社会、そして自分のことを想いながら。

 

 慣れない動作に、すぐに右手が思うように動かなくなってしまった。うまく文字が書けなくなった後も、左手と右手にペンを往復させながらひたすらなにかを刻み続けた。やがて、ノート一冊が赤や青や黒で埋まった。すぐさま次のノートを探したが、辺りには見当たらなかった。もう紙じゃなくてもいい。わたしはそれから、床や壁や家具、目につくあらゆる余白に向かってペンを走らせた。部屋中が、文字とも絵とも言い難いカラフルな線に侵され、禍々しい雰囲気を醸成し始めていた。わたしはいよいよ、自分の身体に向かった。もはや力加減を調整する余力などなく、足先から乱雑にペンを走らせたため、すぐ血だらけになった。

 

 痛い。とても痛い。

 

 ペン先が皮膚をえぐる度に、赤色のインクが噴出した。重力に負けて滴り落ちる赤色によって、床の文字が上書きされていく。

 

 わたしの最期の抵抗は、その時が来るまで続いた。

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