STORY6 1÷0(8/8)連作最終回
「『1÷0』は答えがないって本当ですか?」
片岡先生のキャリアを知って、短い問いを重ねた。
「いちわるぜろ?」
「はい。0って、もともと存在しないものだから」
キミから聞いた話を頼りなく口にするあたしに、先生は首をかしげた。鼻先で孤を描く羽虫を手の甲でゆっくり払い、思案の表情を向ける。
「ゼロ除算か……難しい問題だね。きちんと説明すると長くなるけど、『答えがない』っていうのはある意味正しいよ。数学上では、『0で割る計算は定義しない』と言うべきかな」
豚汁のカップを左右に小刻みに振りながら、先生は了解を求める目で顎を引いた。
キミの考えが合っていたので、あたしは内心ホッとする。
「『1÷0』とはちょっと違うけど、たとえば、1を0.1で割ったら、答えは10。0.01で割ると100になるでしょ」
神様の教えを説く調子で片岡先生は続けた。
「マユちゃん……つまりね、割る数が0に近づくほど、答えの数は無限に大きくなっていくんだ」
あたしは、数字の変化を頭で整理する。
たしかに、割る数の0の桁が増えると、答えが1万から10万になり、億が兆になるようだった。割る方がだんだん小さくなるにつれ、解はどんどん大きくなっていく。
「一方で、1をマイナス0.1で割るとマイナス10。マイナス0.01で割るとマイナス100になる。マイナス側は割る数が0に向かうほど、答えの数字は無限に小さくなるんだ。数直線で考えると分かるよ。プラスとマイナスで、それぞれ無限大と無限小になっていくわけだ」
あたしはついて行けず、相槌さえ打てない。
しかし、その魔法めいた論理に、ハッとした。
けして、キミは物質的にも精神的にも完全な0じゃない。
……遺骨があって、彼の言葉も、トランペットの音色もまだ息づいている。
0.1、0.01……いやもっと小さい数字……0に極限に近い少数でも、キミの存在はあたしの中に確かにある。
「数って不思議ねぇ。なんだかよく分からないけど、ミステリアスだわ」
「いや、人の心の方がずっと奥深いよ。数学はほとんど答えを導けるからね」
片岡先生はそう結論づけ、「講義はこれでおしまい」と言ったふうに、ジャンパーに付いた木の葉のかけらを指でつまんだ。
冬へと移ろいゆく空を、太陽が一日のいちばん高い位置で見守っている。
季節が瞬時に切り替わらないのと同じように、1と0の間にも連続した無数の数字があるのだ。何かがぱったり終わって、別の何かがいきなり始まるわけじゃない。遺族の人がいる限り、あたしは自分の命を生きて、罪を背負い続けていく。
気まぐれな風が売店の暖簾を揺らし、卓上のビニール袋をふわりと浮かせた。
順子さんがテーブルの上を片づけ始めると、甘酒を手にした登山者が近寄り、「あっちに鹿がいますよ」と親しげに伝えた。
「鹿ですか?」と片岡先生。
「ええ、野生の鹿が参拝に来ています」
冗談混じりの案内で拝殿側に向かうと、まごうことなく、鹿の姿が見えた。
頂の平面が傾斜に変わる際(きわ)で、草を食(は)んでいる。
角(ツノ)を持たない雌の鹿だった。
揃いの帽子を被ったカップルがその「来客」から5、6メートルの距離に立ち、あたしたちも同じ位置で横並びになる。
「……まぁ……びっくり」
順子さんが小声で言う。
辺りを見回したが、別の生き物の気配はどこにもいない。
雑木林をバックに、茶色い個体が四肢を広げている。
一頭、いや、一匹と言うべき体はそれほど大きくなく、ピンと張った耳と白い斑点を宿した皮毛の艶やかさがまだ年若いことを伝えていた。
「珍しいなぁ。人の近くに現れるなんて」
片岡先生が声を潜める。
いっさいの音を閉ざした空間で、雌鹿の頭部の上下動だけが時を刻んでいる。
あたしたち5人は、競技を見守る観客みたいに立ちすくんだ。
誰も何も言わない。
社会から切り離れた、厳かで神秘的な映像。
突然、ケータイのシャッター音が静寂を切り裂いた。端の男性が地面に膝をついて、カメラを連写している。
雌鹿は危険を察した様子で動きを止め、片方の耳をわずかに傾けると、つぶらな瞳で人間を見た。
お互いが微動だにせず、視線が交錯する。
ドクンドクンと、あたしの心臓が左の乳房を打つ。
静止状態の我慢くらべが続き、片岡先生が鼻を啜ったタイミングで、雌鹿は両脚をリズミカルに動かし、こちらに数歩向かってきた。
思いがけない展開に、隣りの順子さんが後ずさり、しゃがんでいた男性も立ち上がる。すると、雌鹿は、仲間でも探すそぶりで首を振り、体を反転させた。軽やかだった脚を止めて、檻に自由を奪われた動物みたいにその場で何度か足踏みした。
再び、こちらをじっと見つめる。
自分の居場所といまの時間を疑う眼差し。
あたしは、思わず、体を近づけた。
目と目が合う。
背筋に電気が走り、息が止まる。
次の瞬間、彼女は顔を天に向け、強く鳴いた。
「ピュウー」という甲高い音が、張り詰めた空気に深く鋭く響く。
悲鳴にも、笛の音(ね)にも似た、生まれる前から消える運命(さだめ)を持った幽かな声だった。
ほどなくして、雌鹿は斜面を駆け降りていった。
あたしたちの目の前から素早く消えていき、急勾配のけものみちが枝葉を揺らす。
「きっと、仲間を見つけるわ……」
つぶやいてから、順子さんはあたしの手をそっと握った。
「……マユちゃん、大丈夫よ。大丈夫」
鼓動の高まりが目尻を濡らした。
「じゃ、私たちも行こうか。帰りは時間を気にせず、ゆっくり下りよう」
片岡先生がリュックの肩ベルトを絞る。
あたしは、彼女の居た空間にもう一度視線を落としてから、下山コースの標識を見た。
修験者を誘う小道がなだらかな角度で平地を呑み、アーチ状に連なる樹が赤紫色の葉をはらりと落とした。
足下では、さまざまなかたちの小石が光を浴び、背中側の太陽と日向(ひなた)の明るさが、[嶋マユナ]の影をくっきり映し出している。
帰ろう。
0じゃないキミと一緒に、遺族の人たちの住む場所へ。
目をつむり、深呼吸して、あたしは最初の一歩を踏み出した。
おわり
■STORY6「1÷0」by T.KOTAK
連作「キミの短い命のことなど」完
ShortLove & LoveAlways
All written by TohruKOTAKIBASHI
連作短篇集「キミの短い命のことなど」 トオルKOTAK @KOTAK
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