STORY6 1÷0(7/8)

頂上はすぐそこ。あと少し。

長い長い坂道は、まるで事故から今日までの時間をなぞるようで、心の片隅で夫を恨み続けた自分を振り返る。

プロトランペッターの夢を置き去りにしたまま「0」になるなんて……キミを否定する灯火で、あたしは絶望の辺(ほとり)を歩き、たとえ負のエネルギーでも、愛情と表裏一体の感情を生きる梁(はり)にした。

そう……梁と枷(かせ)で、あたしは生きている。

桜田さんは「あなたは生き続け、自分の人生をしっかり背負うべきだ」と言った。

――「桜田」と名乗る人から電話があったのは、事故からちょうど150日目の9月5日だった。

遺族の方々に宛てた手紙にはケータイ番号も記していたので、登録外の着信に胸が早鐘を打った。

「サクラダアキラと申します。桜の樹の『桜』に、田んぼの『田』。アキラは明るいの『明』です……」

低いトーンで丁寧に名前を知らせてきたことから、事故の関係者と即座に察し、あたしは「嶋マユナです」とはっきり応えた。

「4月の事故で娘を亡くした者の父ですが……いま、お話しても大丈夫ですか?」

ケータイを持つ手が震えた。

桜田さんは出先からの発信らしく、電車の走行音が横切っていった。こっちの空間は会話を遮らないはずなのに、脚の長い昆虫が電話の内側を這いずるようなノイズがあって、あたしは急いで受信部を窓際に向けた。

「手紙、受け取りました。妻とふたりで読みました……嶋さん、あまり自分を責めないでください」

通話状態が良くなり、音声は聞き取りやすくなったものの、桜田さんは通話の中断を危ぶむ感じで、息を入れることなく続けた。

被害者の女性が再婚した奥さんのお子さんで、社会人になったばかりだったこと。もっと早くに電話したかったこと。「あなたがいつか僕の妻に会っても、この電話のことは内緒にしてほしい」――そう順序立てて言った後で、数秒の間、気配を消した。

「……実は、僕の弟も交通事故の加害者でした。弟は心を病み、命を絶ちました……妻も僕もあなたの夫を赦すことはできない。でも、あなたは生き続け、自分の人生をしっかり背負うべきだ」


緑と茶を絡み合わせた樹木の先に青銅色の鳥居が見えた。何世紀も佇む風格で、その場所が山頂の入口なことを伝えている。

片岡先生が足を速めた。

あたしと順子さんは息を切らせて、後を追う。

目の前に青空が拡がり、石段の先に人の気配がする。

「着いたぁ!」

先生よりも先に、順子さんが歓声を上げ、先着の団体を目の前にして、あたしは沸き上がる安堵と体力の限界でその場にしゃがみ込んだ。

標高1252メートル。

その頂きは想像よりもずっと狭く、視界いっぱいの空と開放感は山のてっぺんに違いないけど、どこか裏ぶれた寂しさに満ちていた。高尾山みたいな観光地じゃなく、年輩の登山者や熟練者を受け入れる感じの場所だった。

南側に小さな売店があり、軒先に置いた金盥(かなだらい)の中に、売り物のキュウリが並んでいる。

早速、そこで豚汁を買ったあたしたちは、ウッドデッキテラスの4人掛けテーブルに座り、リュックをようやく下ろした。

順子さんが一息ついて、お弁当を開ける。

おにぎりとゆで卵とパック詰めの鶏の唐揚げ。おにぎりはコンビニのものよりひと回り大きなボリュームだ。

「手作りじゃなくて、ごめんなさい。うちの近くにお弁当屋さんがあってね……このおにぎりが人気なのよ」

気恥ずかしそうにウェットティッシュの容器を向ける順子さんに、あたしは「ご飯まで甘えてしまい、すみません」と頭を下げ、片岡先生が唱えるお祈りに両手を併せた。

「かなりきつい山道だったわね」と順子さん。

「でも、だいたい時間どおりに着いただろ。マユちゃんも頑張ったね」

[紀州梅]のシールが貼られたおにぎりを手にして、先生は晴れやかな笑みを見せた。聖堂での微笑みとシンクロする慈愛深い面差し。

「いただきます」とお辞儀して、あたしは唐揚げを口に運ぶ。保存状態が良いため、ピンポン玉ほどの固体は十分な温かさを残し、衣の脂が舌先に触れた。

その途端、不意に胸が熱くなった。

事故以来、親族以外の人と食事するのは初めてで、食べ物の存在がなんだかそこはかとなく尊く思えた。

キミとのあの夜の夕飯。最後のカレーライス。

「マユの作るものは何でもおいしいな」

お世辞なのか本心なのか、キミはいつもそう言ってくれた。

片岡先生と順子さんに悟られないよう、人さし指で右目の雫を払い、遠くに視線を移す。

眼下にガーゼをかけたみたいな大地が見え、川や公園と調和した何千何万もの建物が、地平線に近づくにつれ、空と一体になっていた。

復活したイエス様が天に昇ったオリーブ山を、あたしは想像する。

「マユちゃん、よく教会に来てくれたね。もうどれくらいになる?」

ふたつめのおにぎりのラップを外す片岡先生に、あたしはお腹に力を入れて「まもなく半年になります」と答えた。

後ろのテーブルでカップルが笑い、重装備の登山者が通り過ぎていく。

「そうか、もうそんなになるんだ。どう? 聖書の世界も悪くないでしょ? ……私たちひとりひとりにそれぞれの神様がいていいんだよ」

先生の教えが頭にすんなり入らず、あたしは水筒に伸ばした手を止める。

「イエス様は絶対的なものだけど、彼の分身をみんなが心の中に住まわせるってことかしら?」

訝し気な目で、順子さんが助け舟を出してくれた。

「うん、まぁ、そんなとこかな。極端に言えば、答えさえ間違っていなければ、聖書へのアプローチは自由でいい。教会で僕の話を聞かなくたっていいんだ……これは会派のスタンスじゃなく、あくまでも片岡大史の私見だけどね」

「算数で言えば、答えを出す計算式は人それぞれ違っていいってことね」

穏やかな口調で順子さんがたとえると、片岡先生は得心を頷きに変えた。

その優しい表情がいつかのキミとの対話に息を吹きかけ、あたしはいまになって、先生が中学校で教えていた教科を訊く。

「私は、国語だよ」

片岡先生は唐突な質問にまばたきして、「大学の専門分野は理数系だったけど、もともと文学が好きだったからね」とはにかんだ。



(8/8へ続く)

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