STORY6 1÷0(6/8)
「しばらく、トランペットを止めようかな……」
4月8日の夜。リビングでカレーライスを食べながら、キミはポツリと言った。
ギラン・バレー症候群を発症し、闘病生活を送っていた俳優が心不全で亡くなった――テレビのそんなニュースで、体の変調を気にかけたのかもしれない。
あたしは言葉をうまく返せなかった。
一時的にでもトランペットを止めるのは大きな決心にちがいなく、「夢のために続けるべき」なんて無責任なアドバイスは送れなかった。
それから、キミはご飯を元気におかわりして、いつもどおりに夜勤仕事へ出かけた。
「ドラマの録画、よろしくね」
それが、最期の言葉。
トランペットの迷いを打ち消す笑顔でエレベーターホールに向かい、前の週と変わらない日曜日の夜だった。
山道は急に拓けたり、極端に狭くなったり、さまざまにかたちを変えていく。
なだらかな面が続くと、急斜がいきなり現れ、片岡先生は標識を見つけるたびに「さぁ、もう少しだ」とあたしを鼓舞した。
[十七丁目]の表示は道の左右にあり、現在地の「名前」が大きな安心感を与えてくれた。
名前……そう、あたしはキミの事故の後、知る必要のないたくさんの事柄の名前を覚えた。
陳旧性心筋梗塞に基づく急性心機能不全
それが、司法解剖で分かったキミの死因。
4トントラックが走行速度でバス停に突っ込んだ事故をワイドショーは速報した。その反面、原因の解明には時間がかかった。
居眠り? アクセルとブレーキの踏み違え? 殺意を持って人の列に向かった?…あり得ない憶測までマスコミが伝え、[被疑者死亡]の事件を民事と刑事責任の双方が探る過程で、配偶者のあたしは警察から事情聴取を受けた。
「刑法211条2項・自動車運転過失致死罪。もし、嶋公彦さんが意図してバス停にぶつけたのなら、刑法199条の殺人罪も適用されます」
担当官は事務処理的な口調で告げた。
キミの死はなぜか現実味がなく、むしろ、最愛の人が大変な事件を起こしたショックで、あたしは義父や両親の支えがなければ立ち上がれない状態だった。
損害賠償義務は勤め先の運送会社が負い、それが、自動車所有者に発生する損害賠償保障上の[運行供用者責任]ということを後で知った。
そうして、事故の故意性が薄れていくと、キミの勤務状況や生活習慣が捜査の矛先になった。夜勤体制に無理はなかったか、日常のストレスはなかったか……運送会社の使用者責任が問われながらも、社長は警察と遺族の方々に実直に応対し、加害者である[嶋公彦]の人格と運転技量を肯定してくれた。
妻のあたしは生前の夫の健康状態を懸命に辿った。
高血圧症・不整脈・狭心症などの既往症の有無、入社時の健康診断、1年前の人間ドックの結果、風邪で往診した開業医のカルテまで丹念に調べ、胸の痛みを訴えていたことも公にしたけれど、確証には至らなかった。
「もし、あなたたちが嶋公彦さんの甚大な欠陥を知っていたのに仕事をさせていたのなら、過失責任が生じます」
保険会社の者は、運送会社の総務部長とあたしに対峙し、[欠陥]という尖った単語を使って、少しでも賠償から逃れたい話し方で言った。
不起訴処分でも、仮に殺人罪が成立すれば、保険会社は免責され、勤務先の使用者責任も意味合いを変える。そして、配偶者のあたしが相続放棄せずに被害者遺族の方たちに賠償する……どんな理由であれ、人を殺(あや)めた罪を償うにはそれが正しいのでは?と、果たせるはずもない金銭補償を考えた。
片岡先生がカメラを構える。
二十丁目。[富士見台]という名のとおり、富士山を拝める絶景ポイントだけど、視界に雲がかかり、掛け軸の古い画(え)みたいにぼやけている。
先生のリクエストであたしは順子さんの横に並んだものの、疲労感と鬱々した思いで、レンズをぎこちなく見つめるしかなかった。
……運転席から運び出されたキミは、既に息絶えていたらしい。頚椎と大腿骨が折れ、砕けた肋骨で内臓の多くが常態を失くしながらも、病院の霊安室では普通に眠る顔だった。
曖昧な意識で仕事先から駆け付けたあたしは、その時点では被害状況をほとんど知らず、キミの偽りの安らかさだけを視覚に残した。
事件当日の記憶はぱったり途切れている。
「20代の人の運転中の突然死は極めて少なくて、運転手の病的発作での事故は全体の0.1%ほど、1000件にひとつかふたつです」
後日、白衣を纏った解剖医の横で警察関係者がそう切り出した。さらに、運転手が死亡するケースはその0.1%のうちの10%程度だと続けた。
交通事故の1万人にひとり。
なぜ、あたしの夫がそんな低い確率でいなくなってしまったのか。4人もの命をどうして道連れにしてしまったのか……神様に問いたかった。キミの短い命のことなど……あたしが遺された意味など。
「心臓が2割ほど肥大化していました。急性心機能不全のひとつの特徴です」
アスファルトにわずかに残ったブレーキ痕が気になり、あたしはキミが落命するまでの時間を尋ねた。すると、解剖医は襟元を正して、回答をゆっくり捜した。
「……あくまで推測ですが、ブレーキを踏んだのはドライバーの本能でしょう。瞬時の痛みで気を失い、衝突時にはもう他界されていたと思います」
朝7時――あと少しで勤務を終える時間に、キミはどんな思いでハンドルを握っていたのだろう。
数週間後、会社はふたつに割れた銀色の盤を「嶋さんの私物だから」とあたしに届けてくれた。それは、カーステレオの中にあった著名なトランペッターのCDだった。
急斜面を上がる。
キミの胸の苦しさを考える。どんなに想像しても、あたしはその痛みを共有できない。あんなに一緒にいて、あれだけ同じ時間を過ごしていたのに。
体がはち切れそうだった。杖を握る力は覚束なく、歯を食いしばって、ひたすら、上へ。順子さんの呼吸も乱れ、登山者のすれ違いを許さない道幅が苛烈な試練を与えてくる。
油断すれば倒れ込んでしまう辛さで、あたしは一瞬だけ瞼を閉じ、教会の燭台にゆらめく炎を思い浮かべた。
わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください
わたしたちの罪をお赦しください
わたしたちも人を赦します
やがて、行く先に矢印を向けた道標が[山頂まで200メートル]と知らせた。
「よしっ、あと10分!」
片岡先生が気勢を上げた。
(7/8へ続く)
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