STORY6 1÷0(5/8)

ようやく、[十二丁目]に辿り着く。

ここが、片岡先生の言っていた[休憩所]で、多くの登山者を休ませるベンチがあった。

寺社の駐車場ふうに馴らされた土地は休息用に作られた空間で、急斜な切断面と敷き詰めた砂利が山の中腹を人工的に切り拓いたことを示している。しかし、自動販売機や売店はなく、あくまでも、長い道のりの一部でしかない。

あたしたちの到着と入れ違いで、さっきの団体が出発していく。

木立の先にうっすら見える町並みはまるでジオラマのようで、高地に来たことをはっきり教えてくれた。

リュックを降ろした片岡先生は「ここまで来ればもう一息だよ」と伸びをして、ポケットから取り出したキャンディをあたしと順子さんにひとつずつ手渡した。


まず、あたしは水筒の水を時間をかけて喉に流し込む。

下山まで容器を空っぽにしないよう気をつけながら、1cc1gの液体がお腹に入って荷物を軽くするなら、ぎりぎりまで飲んでしまっても構わないと思った。

「じゃあ、10分ほど休みましょう」

タイムキーパーの順子さんが言い、あたしはレモン味の飴玉を舌先で転がして、土にまみれたスニーカーの紐に指をかける。

汗がやんわり引いていき、季節に応じた肌寒さを感じた。

「マユちゃん、高校の時に私が書いた手紙、覚えてる?」

前置きもなく、片岡先生が語りかけてきた。

あたしは右の靴紐を直しただけで姿勢を戻し、「はい。もちろんです」と、続きを待つ。

「あの手紙はね……ここで書いたんだよ」

「ここで、ですか?」

朗読台で説諭する時と同じ瞳が、先生の偽りない内面を顕していた。

「あの頃は、本当にいろいろあったわね」

順子さんが手袋を外し、表面にできた毛玉を摘み取りながら応える。

「……そうだね。マユちゃんへのあの励ましの手紙は、私自身に向けたものかもしれないな」

「先生が、ご自分に…?」

「うん。当時、私はハンドボール部の顧問でね。地区大会の優勝の本命だったのに決勝で負けてしまった……それが大きな挫折だったな」

「違うでしょ。ショックだったのは、管理職試験に落ちたことでしょ?」

順子さんのツッコミに片岡先生はキャップをずらして頭を掻き、舌を出した。

「学校が結構荒れててね。まぁ、他にもいろんな問題が集中したんだよ」

シリアスに傾いた口ぶりに、あたしは過ぎた日を思いやる。

山腹のこんな場所でペンを走らせるなんて……聖職者の片岡先生にも閉ざされたアルバムがあることを知り、なんだか少しホッとする。

「……あの手紙には救われました」

本心を告白すると、鼻の奥がツンとした。

ブラスバンド部、キミとの出会い、同棲、結婚、仕事、夢……そんな過去がごちゃ混ぜになって脳裏をかすめていく。

片岡先生は真白い便箋に「生きている限り、自分の存在を疑ってはいけない」と書いていた。

心に深く染みる言葉だった。

自分を疑わず、キミの存在を運命と信じる――ところが、この半年で、先生の金言は落葉樹みたいに彩りを変え、あたしは自分の生きる意味を疑った。もし、[小久保マユナ]がいなければ[嶋公彦]は別の時間を過ごし、あんな事故を起こさなかったかもしれない。牧原さん夫婦はずっと幸せに暮らしていたかもしれない。

「いや、あの手紙の数年後の、小久保からの……マユちゃんのお父さんの手紙の方が私に効いたよ。手紙っていうか、ハガキにびっしり書かれたメッセージだったけどね」

初めて聞くエピソードは、片岡先生が教師を辞める決意をした時のものらしく、「教え子の親とのいざこざは、教師として自分が未熟だった結果」と自嘲する夫を、順子さんは「あなたに非はなかったのよ」と嗜めた。

そう言えば、学生時代に何となく聞いていた片岡先生の容姿はこんなに華奢で年老いたものじゃなかった。

夫婦のふたりはそれ以上を語らず、現在(いま)を愛しむ面持ちで、しばらく景色を見つめていた。

「手紙ってのはいいよね。その人ならではの文字の中に、思いがつまっている」

リュックを背負い、先生がしみじみと言った。

飴玉がかたちを無くし、休憩時間の終了を告げる風が頂から降りてくる。

あたしは自分の動作を取り戻し、なおざりにしていた片一方の靴紐を結び直す。

学校教師の手紙でひとりの高校生が更正し、友人のメッセージを受けたその人が、聖職者になってみんなの道を照らしていく。

言葉が人を救い、救われた人がまた誰かのために言葉を紡ぐ。

文字にした想いは普通は尊いはずだけど、加害者が遺族にあてた手紙は正しかったのか……どんなに本心を伝えても、謝っても謝っても謝っても、命は還ってこない。それでも、あたしは書くことを選んだ。何かで気持ちを伝えるしかなかった。

「さぁ、あそこがゴールへの入口だよ!」

片岡先生が威勢良く発し、前方の勾配を指差した。


道は果てしない。

でも、歩くしかない。

鼻と口で空気を吸い、心臓が血液を送り出す。

生きている。たしかにあたしは生きている。

それなのに、いまだけじゃなく、この半年の間、体が遊離している感じだった。0にどんな数字を掛けても0になるように、何をしても、あたしはあたしじゃない気がする。

事件が起きたこと、たくさんの人の命を夫が奪ったこと……消え去ることのない事実が思い出を否定していくくせに、あたしはキミとの思い出だけを生きるよすがにしている。



(6/8へ続く)

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