STORY6 1÷0(2/8)
「神社の跡らしいわ」
石碑の正面に立った順子さんが案内板を読んで向き直り、あたしはそのモニュメントの意味より、一息つけたことにホッとする。
「白山神社か……山伏とかの修験者が参拝した神社だね」
眼鏡のレンズを拭く片岡先生の横で、順子さんが腕時計を見て「いいペースだからお昼前には山頂に着くわ」と続けた。
「天気もいいし、寒くもないし、山登りにはちょうどいいね。マユちゃん、杖が意外に役立つだろ?」
初めて会った時と同じ温厚な眼差しで、片岡先生が体に溜めた空気をめいっぱい吐き出した。あたしの強張(こわば)った両腿もだんだん和らいでいく。
視野を広げると、樹々に注ぐ陽が編み目模様の陰影を斜面に作っていた。
いつもはローマンカラーのシャツとダークスーツの片岡先生が、今日は牧師じゃなく、課外授業の学校教師に見える。
最初に教会を訪ねたのは、事件から2か月経った6月の日曜日だった。
父のあらかじめの連絡で、初対面の片岡さんは自然に接してくれたものの、あたしが礼拝後に現れたことにとまどいの色を浮かべた。
角地に面したグレーの建物は、屋根の十字架がなければ図書館や文化会館といった雰囲気で、誰もを気軽に迎え入れる扉だったけど、あたしは通りの反対側でためらい、にわか雨を避けるようにコンビニや書店に身を隠した。罪を犯したキミとあたしを、神様が簡単に受け容れると思えなかったからだ。
倒木を左右に渡した段差で先生のリュックが揺れ、細道の先を行く登山者が、つづら折りの起伏の中に姿を消していく。
教会の日もこんな静けさだった。
高い天井、ステンドグラス、マリア像、木製のベンチ……映画に出てくる光景と違い、片面採光の聖堂はひとり掛けの椅子をこじんまりと並べ、百合の香りを微かに漂わせていた。
「マユナさんですね? 小久保のお嬢さんの」
オルガンのそばにいた片岡さんがこちらの小声の挨拶に「ちょうどいま礼拝が終わったところです」と、ロウソクの火が消えた燭台を指差した。
[コクボ]という旧姓の響きと一緒に、あたしは10年前の手紙の送り主にようやく会うことができた。
小皺が多く、無駄肉の削げ落ちた顔貌は還暦前の父と同い年には見えず、定年退職した男性が聖職に従事しているふうだった。痩身で骨張った人はたいてい冷徹なイメージなのに、片岡さんはそうじゃなく、丸眼鏡の奥の黒目と鼻翼の膨らみが豊かな人格を感じさせた。その一方で、肌艶も人相も悪い来訪者のあたしはかなりの違和感を与えたはずで、恰幅ある父とは別の人種に見えただろう。
「嶋マユナ」という来訪者が事件加害者の妻であることを知っていながら、片岡さんは聖卓の前で右手を差し出し、教会への歓迎を伝えてくれた。
それから、聖堂に隣接する住居で奥さんの順子さんに遭い、牧師や神父は独身を貫くものと勝手に思い込んでいたあたしはひどくどぎまぎしながらリビングチェアに腰かけた。
「私は神父でも牧師でもないんですよ……いや、どちらでもあり、かな」
片岡さんは素人の疑問を読み取って言い、順子さんが煎れてくれた紅茶を勧めた。
「私たちはカトリックとプロテスタントの中間にあって、ヴィア・メディア……中道の教会と呼ばれています」
サイトでのチェックは教会の場所だけで、肝心な信仰を予習してこなかったことを取り急ぎ詫びた。
旦那さんの脇で一歩引いた感じの奥さんは、目元のたるみと手首のかさつきに相応の年月(としつき)を刻んでいたけど、派手なピンクのセーターが夫婦の年齢(とし)の差を知らせた。
「カトリックは教会をひとつの家族のようにとらえ、私のような存在をファザー、神父と呼びますよね」
「ここまでは分かりますか?」と問いかける表情に、あたしは素直に頷いた。
「プロテスタントの方は群れの指導者という意味で、パスター……牧師と呼びます。でも、私たちは指導者というより、教会の管理者的な位置づけです。まぁ、呼び名なんて何でも構いませんが」
あたしは自宅に戻ってから改めてウェブサイトに向き合った。そうして、片岡さんの会派が英語圏ではアングリカン・チャーチと呼ばれ、イギリスでは国民的な教会であり、東西に分かれたキリスト教会の西方の流れを組むことを理解した。
ホームページには、[司祭・牧師]片岡大史(かたおかひろし)と書かれ、Q&Aで聖職者を先生とも記していたので、再訪した翌週には、あたしは片岡さんを[片岡先生]と呼んだ。
登り始めて40分。
間隔を狭めた気息が鼓動を速め、膝も笑い始めている。筋力を落とした体は日常生活のエネルギーを作り出すのがやっとで、登山という非日常の運動をあからさまに拒否していた。
八丁目には、[夫婦杉]と名付けられた巨木がそびえ、大人数人がすっぽり隠れる幅広な樹幹から、同じ太さの幹をV字に拡げている。雷が大樹をまっぷたつにしたようなかたちだ。
樹皮に触れていた片岡先生が、下から見上げる角度でデジタルカメラを構える。
「立派な樹ね……」
そうつぶやいた順子さんに、あたしが夫婦ふたりの記念撮影を提案すると「マユちゃんと3人で撮れたらいいんだけどね」って、別の誰かを探すそぶりで登って来た方向を見つめた。
どれほどの歳月が若木をこれほどまでに成長させるのか。あたしは顎先を地面と平行にして仰ぎ見た。
枝葉の隙間が空を分断し、本当はもっと明るいはずなのに、視覚のいたずらか、本来の空色を灰色っぽく濁していた。
片岡先生が、水筒をリュックに戻したあたしを待って「さぁ、頑張って登ろう!」と腿を叩き、その場で足踏みする。
そして、再出発の覚悟でアウターのファスナーを上げた時、ふと、聖書に出てくる[オリーブ山]を思った。イエス様が弟子たちと最後の祈りを捧げた山。峰から見下ろすエルサレムの街は、いったいどんな眺めなんだろう。
(3/8へ続く)
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