STORY6 1÷0(1/8)

4月9日の朝、あたしの夫の嶋公彦は0(ゼロ)になり、たくさんの見知らぬ人まで0にしてしまった。

「交通事故ではなく、殺人事件です」と、ニュースキャスターは言った。

「過失でも偶然でも、誰かの命を奪ってしまえば、事故は事件になります。人を轢いた運転手が逃げようと自首しようと、遺された家族の哀しみや憎しみは変わりません」

コメンテーターが、加害者でもなく、被害者でもなく、遺族でもない視聴者を煽動していく。

殺人を犯してしまった夫のキミ。

その妻である、あたし。

7か月が経って、報道は次第に薄れ、かさぶたが剥がれるように世の中は忘れ去ろうとしている。

でも、あたしは何も変わらない。もちろん、遺族の人たちも。あの日から、少しも。


神社の境内に登山口があり、見上げるほど急な石段を上がっていく。のっけからきついコースだった。

動悸が速まり、途中、[登山道二丁目]と刻まれた碑を見つけ、スタート地点が0じゃなく、1だったことをあたしは知る。


「0は生活の中には存在しないもんだよ。ビルに0階ってないだろ。地上が1階で、地下はB1。昔は背番号0の野球選手だっていなかったんだ」

1年前の秋、テレビのチャンネルに[0]がないのをあたしが不思議がると、キミはしたり顔でそう言った。

左手で手摺りを掴み、右手の杖で片岡先生を追いかける。1段ずつ、上へ上へ。

あたしは息を整えて、その時の会話を思い出す。

「1÷0の答えって何だと思う?」と、キミが訊いた。

「割る数がないんだから1のままでしょ」

「違うよ。答えが1なら逆算は0×1。0×1の答えは1じゃないだろ。答えが1になるのは割る数と割られる数が同じ時だけだよ」

頬にできた面疔(めんちょう)を気にしながらキミは言い、「存在しない0を割ることはできない。だから、答えはないんだ」と続けた。

子供のいないあたしたちは、ふたりきりの部屋でとにかくよくしゃべった。

近所にできたアウトレット、ポータルサイトのニュース、CMで流れるメロディ……。

高校時代と変わらずに[マユ・キミ]と呼び合い、ケンカしてもほんのちょっとの冷戦期間だけで、いつも一緒にいた。


「結構きついでしょ。マユちゃん、大丈夫?」

石段を登り終えたところで、片岡先生は振り返り、奥さんの順子さんが体を寄せて、あたしの腰に手を添えた。

山慣れしたふたりはハイカットの靴と化繊素材のズボンを履き、ちっとも息切れしていない。初心者のあたしのために自宅から持ってきてくれた杖に感謝しつつ、靴底の浅いスニーカーと伸縮性の悪いジーンズ姿の自分を恥じる。


「大自然は神の創造物だよ。自然を通して神の言葉が理解できるとも聖書は言っている。マユちゃん、私たちと山の空気を吸いに行かない?」

正餐式の後で、片岡先生はあたしを呼び止めて言った。成績の悪い生徒が補習を受ける感じで誘いに乗ってしまったけど、ちゃんと考えるべきだった。

参道の小川の清らかさや山間(やまあい)のモミジの美しさが胸を締めつけ、すがすがしいはずの空気も重い。

もともと、カトリックとプロテスタント、神父と牧師の違いさえ理解せず、[父の友人]の片岡先生だけを頼りにするあたしに神様を知る権利なんてないんだろう。聴こえてくるのは昨日も今日もキミの声。それに、牧原さんや桜田さんの言葉。

少し開(ひら)けた場所で、順子さんは「ゆっくり登りましょう」と、片岡先生にペースの調整を促した。

晩秋の光が石や岩の連なる路面をまだらに染めて、行く先の厳しさを教えている。

平日だから、紅葉の時期でも人影は少なく、枯れ枝と落ち葉の重なりがスニーカーの下で渇いた音を立てた。目の前のふたりがいなければ、あたしは来た道を引き返したにちがいない。


5月の金環日食の夜に、あたしは実家に電話して、[父の友人]の居場所を尋ねた。

かつて、中学教師だったその人……片岡先生の10年前の手紙で、あたしは高校のブラスバンド部で生き甲斐を見つけることができたからだ。受験に失敗し、第一志望じゃない都立高に入学した結果、不登校になりかけたあたしを救ってくれたのが片岡先生の手紙だった。そうして、片岡先生が教壇を離れ、聖職者になったのを父から聞いていたのを金環日食の夜に思い出し、天の啓示さながら、いますぐ会いたいと思った。


足を動かすたび、背中の荷物ががさつく。

「お昼は私たちが用意するから」と言ってくれた順子さんに甘え、フリースと水筒と化粧ポーチだけにした持ち物がリュックの容積を持て余している。

ケータイをポケットにしまい、首にスポーツタオルを巻いて、一応は山登りのスタイルだけど、帽子を被ってこなかった。ハットやキャップは陽避けだけじゃなく頭を守るためなんだと、段差でバランスを崩して気づき、キミと山登りした時のニットビーニーをフリーマーケットで処分したのを悔やんだ……ふたりで高尾山に登ったのはもう随分前なのに、まだ昨日のよう。茶屋でキミと分け合ったみたらしだんご。リフト乗り場でのキミのしゃっくり。

凸凹(でこぼこ)の道を行くと、[3丁目]の標示の近くに、大人の背丈ほどの石碑を見つけた。



(2/8へ続く)

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