STORY5 いまがいちばんかわいい時(8/8)
わがままな願い事を、出会ったばかりのバーの店主と面識のない会社員が実現してくれたことに、北村の胸がつまった。と同時に、事故の全てを知ろうとする自分の行動を疑った。生き残った女性とのコンタクトで過去が変わるわけではない。それは分かっている。
「同じ事故で亡くなった者の父親です」
見も知らぬ石井照美という人は、そんな申し出をどう受け止めるだろうか。
金城が記してくれた電話番号の数字とメールアドレスのアルファベットが意味をなさない記号に見えた。
そして、北村の中に、母親であり、妻だった早苗の、真理絵を出産した頃のかけがえない命の営みを想った。
いま、彼女はどんな思いで生きているのか。
一人娘について話をしたい。ベランダで談笑したあの頃に戻りたい。
離婚を決めた日の夜は、新宿のスペイン料理店で、久しぶりに夫婦だけで過ごした。
「あなたには感謝してるわ。家族のために一生懸命働いてくれて……でも、あたしはすごく寂しかったの」
早苗はひとつひとつの単語を噛み締めるようにゆっくり言った。
それから、フラメンコショーの喝采に逃げ込みながら「何かあったら、真理絵と3人で会いましょうね」と加えた。
家族を意識して働いたことはなかった。家族というものは放っておいても勝手に存在し続け、何もしなくてもずっと傍(かたわ)らにあるものと思っていた。
「北村さん、お腹すいてない?」
突然問いかけた金城が、返事を待たずにカウンターの中に戻り、炊事場へ入っていく。ガスコンロと冷蔵庫だけの空間は、ワンルームマンションのキッチンより狭く、彼女は掌に納めた小鉢を携え、「良かったら召し上がって」と微笑んだ。
一口サイズにした明太子が3切れ。薄暗い照明の下でも、真白い陶器と赤のコントラストが鮮やかだった。
「ご飯はないけど、おつまみにどうぞ。わたしはビールをもう1杯いただくわ」
北村のウィスキーを足してから自分のタンブラーを満たし、店主は声を弾ませた。そうして、束の間の宴を楽しむ感じで、コンポのボリュームを少し上げた。
感情の振幅を抑えて、北村は明太子を口に運ぶ。
デザートに似た冷たさでツルリと喉に落ち、舌を刺す辛みが後れてやってくる。柔らかな食感と奥行きある味覚は、次のひと切れ、さらに次を促し、空になった小鉢に赤い染料をほのかに残した。
「おいしかった。ごちそうさまでした……」
箸を揃え、北村は夢中でたいらげたことの照れくささで頭を掻く。
「良かった!……タラの後は、レバーを食べるといいわ」
「レバー?」
「そう、『たら』と『れば』よ。わたしは淋しい時には明太子をお腹に入れて、近所の中華屋さんでレバニラ炒めも食べることにしているの」
タンブラーを傾けて、金城が答える。
「たら……れば……」
ひとりごちた北村は、使い捨てライターに火を点してから彼女と視線を交わした。身長差が15センチほどのふたりは、立つ者と座る者とで瞳の高さを逆転させている。
北村は昨夜の野球を思い出した。
あそこでフォアボールにならなかったら……ピッチャーが別の球を選んでいれば……。
ピアノが主旋律のメロディーを緩やかに紡いでいく。
「『たら』とか『れば』とか……仮定形を飲み込むことで、わたしは毎日生きてるの。卓也がいなくなってからずっと。もし、台風が来なかったら、あの子が海に行かなければって仮定をね」
北村は店主の告白を素直に聞き入れ、反芻した。
……そう、あの朝、真理絵がバス停にいなかったら、もっと一緒の時間を過ごしていれば。
連鎖する仮定に、告別式での早苗の嗚咽が重なる。
いまも夫婦で暮らせていたら、家族を仕事と同じくらい大切にしていれば。
「北村さん、わたしはね、拓也は、いまがいちばんかわいい時だと思うの」
「いま?」
「そうなの。いまよ。明日になれば、明日が『いま』になるの。つまり、いちばんかわいい時がこの先もずっと続いていく」
口角を下げ、小鼻を膨らませた表情に母親の強い意思が溢れ出ていた。
タバコをもみ消し、放置していたグラスに触れた北村は、ふと、何かに追われる感じでモバイルの待受画面を見つめた。
真理絵が最後に送ってきた写真。
旅行先の世界遺産の前で、ファー付きのフードを被っている。母親の面影ある輪郭。何かを言いたげな口元。誕生日に贈ったスニーカー。
「パパの雑誌のモニュメントバレーに行ってみたかったの」
メールには、そう書かれていた。
モニュメントバレーの記事は、まだ家族3人で暮らしていた頃に、北村自身が海外ロケで創った特集だった。
砂塵の匂い。渇いた風。観光客のざわめき。真理絵が見たもの、感じたもの。
たしかにいま、それが父親には分かった。
「人の最高の能力は想像力よね。わたしは後ろ向きな『たられば』を消して、明るい想像を……前向きな未来形を手に入れるの。あの子はどこかで生きていて、いまがいちばんかわいい時なんだって。毎年ちゃんと歳もとって、40になっても50になっても、卓也はその時がいちばんかわいい……」
金城は息を長く吐き出し、会話に休符を入れる仕草で携帯電話を開いた。
「あらっ! 佐々木くんからメール」
北村のモバイルにも着信があった。
「いまから来るって! ……だったら、今夜は3人でずっと飲まない? おごるってあげる。美味しい中華屋さんも紹介するわ」
北村は店主の提案に穏やかな笑みで応え、目を閉じた。
鍵盤の美しい音色。
いつかのピアノ発表会。
会場の隣りの席に早苗がいて、ピンクのドレスを着た真理絵がステージの上でぎこちなくお辞儀した。
生きている。
いまがいちばんかわいい。
北村は、そう信じた。
おわり
(STORY6へ続く)
■連作「キミの短い命のことなど」
STORY5「いまがいちばんかわいい時」by T.KOTAK
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