STORY5 いまがいちばんかわいい時(7/8)

◆◆◆◆◆


「惜しかったわね。あとひとりだったんでしょ」

金城はジェムソンのボトルを棚に戻して、開店したばかりのカウンター席に微笑んだ。

スペースの真ん中に座る北村が、浮き足立った思いで彼女のひとつひとつの動作を追う。

背もたれのある座面はクッションの利きが良く、つい長居してしまいそうだが、ビジネス鞄を隣席ではなく足元に置いた。グループ客の来店があれば、端に移動するなり、おとなしく退散すればいい。部下の佐々木にも、今夜、用件あってここに来ることを伝えてあるから、誰にも迷惑や失礼がないはずだ。


「でも、ノーヒットノーランだって、すごい記録ですよ」

ロックグラスを受け取って、北村は先週と同じように敬語で応えた。

バーのママだから、世間のいろいろな話題を接客用の引き出しにしまっているのだろう。しかし、金城にとって、野球の話題は通り一遍の「接客用」ではないらしい。レジ前に福岡の球団マスコットのぬいぐるみが置かれている。

「『うちのチーム』があんないい投手に逃げられちゃったのが間違いだわ」

「……私は移籍してもらってうれしいけどな。おかげさまで今年は優勝するかもしれない」

金城の好きなチームを理解しつつ、北村はさりげなく自分の贔屓(ひいき)を伝えた。

標準語の彼女が九州育ちかどうかは聞かなかったものの、再会した相貌に「博多美人」という言葉が重なった。

昨晩、27人目のバッターは、フルカウントから低めのストレートを見逃してフォアボールを選んだ。結局、「完全試合」という奇跡は起こらなかった。それでも、「ノーヒットノーラン」という貴重な記録は、今朝のスポーツ紙を存分ににぎわせていた。


北村は琥珀色のウィスキーを舐めた。アイリッシュ独特の甘みが口腔に膨らむ。

「実はね、偶然過ぎて怖いけど……佐々木くんと北村さんの次の日にね、例の派遣会社の課長さんがいらっしゃったのよ」

言った後で、金城は自分のタンブラーを口元に寄せた。

その円柱形のタンブラーには、「良かったら……」と、北村がチェイサー替わりにオーダーし、おすそわけしたビールが注がれている。「遠慮なくいただきます」と彼女が手にした小振りなグラスを「それじゃ足りないでしょう」と北村が笑い、客人用の容器に変えた。

白く柔らかなビールの泡が量を減らすと、飲み口のガラスに当たった間接照明が、水面のきらめきに似た光を反射させた。

BGMのピアノが、隣室から伝わる程度のボリュームで滑らかな音色を立てている。

金城はアーガイル柄のサマーセーターの左胸にト音記号を模したブローチを付け、毛先を内巻きにしていた。1週間前よりも明るい印象で、カウンターでの足取りも軽い。

「それで、早速、北村さんのお嬢さんのことを課長さんに話してみたの……他にお客さんがいなかったからちょうど良かったわ」

少し早口になって続けた。

新しいマルボロライトのボックスをグラスの横に据えて、北村は耳をじっと傾ける。

動悸が[報告]の早送りを求めたが、言葉を挟まず姿勢を正した。

「事故に遭った人は、石井さんって女性なんだけど……派遣会社の登録は3月で切れてたそうよ」

「今年の3月?」

「そう。だから、いまは直接の繋りはないんだって」

1メートルも離れていない正面から、北村は金城を見つめた。

唇の脇にある吹き出物を、厚塗りとは言わないほどのファンデーションが隠している。

4月9日の朝。その女性は真理絵のような通勤途中ではなかったという。朝早くにどんな用事があって、あそこでバスを待っていたのか――グラスを傾けて、北村は独り黙考した。

「課長さんは『彼女にまた連絡を取ってみる』って言ったの。彼自身、ちょうど、事故直後に契約確認の電話をして、石井さんが事故に遭ったのを知ったらしいわ」

金城は立ち位置を離れて、キャッシャーの後ろで体を屈めた。

深緑のセーターがカウンターの中で消え、ピアノソナタが止まる。10秒にも満たない時間だけ、人の気配と物音が途絶え、北村は穴蔵に取り残された気分になった。

「彼から、北村さんに渡す名刺をいただいたわ」

店主はフロアに出てきて、北村に名刺を渡し、まるでトイレから戻った客のような振る舞いでスツールに腰掛けた。

「裏にあるのが、石井さんの連絡先よ」

北村は相手の会社名も覚えずに名刺を裏返した。

ボールペンの細い字で、[石井照美さん]とあり、その下に「03」で始まる電話番号とパソコンのメールアドレスが記されている。きれいな楷書体で、特に[照]の字は筆ペンで書いたような美しさだった。

「……それで、おとといの夜に課長さんから電話があって、石井さんに事情を話したから大丈夫だって言ってくれたの。電話で聞いた連絡先をわたしがそこに書き留めたんだけど、何度も確認したから間違ってないはずよ」

左胸が早鐘を打ち、北村は涙腺を緩めた。

「ありがとう……ありがとうございます」

ひび割れた声が、フロアにゆらりと落ちた。



(8/8へ続く)

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