STORY5 いまがいちばんかわいい時(6/8)
◆◆◆◆
雲間から差し込む一筋の光にすがって、北村は1週間を過ごした。
真理絵の事故で一命を取り留めた人がいることは、早苗からも聞いていた。
「停留所に並ぶ場所がちょっと違っていたら、助かっていたかもしれない」
母親は娘の実父である北村に再会すると、そう言って喪服の肩を震わせた。北村は、自分の内面が鏡に映し出されたような慟哭を目の当たりにし、ようやく現実を受け入れた。そして、元の妻に寄り添う再婚相手に遠慮しながら、火葬場へ向かうマイクロバスの後部座席で涙を拭った。
生と死の、わずかな境。
真里絵に会いたい。
娘の最期の姿を知りたい。
金城卓也の母親は、派遣会社の常連客に連絡を取ると申し出てくれた。
「名刺もいただいてるし、わたしから話をしてみるわ」
それで、約束どおりに彼女は北村のスマートフォンにメールをくれたのだった。
「明日の夜にでも、お時間があったら店にいらしてください。お待ちしています。金城」
会社から帰宅する電車の中でそんなメッセージを受け取り、北村の心がにわかに跳ねた。
乃木坂にすぐに向かいたい衝動に駆られたが、ショップカードで水曜の今日が店の定休日と知り、曜日の巡り合わせを恨めしく思った。喫茶店でも駅の構内でもいいから[連絡先]だけでも聞けないだろうか。
しかし、心拍の乱れは、降車の人波に揉まれて次第に勢いを弱めていった。
……そう、焦ることはない。
あのバス停前のマンションに通い続けた時間を思えば、なんのことはない。明日の夜までたった24時間。
海で息子を亡くした母親は、酒と音楽だけを味方にして3年間も耐えてきたのだ。金城を急かすのは止めよう。明日でいい。明日まで待とう。
独り暮らしには広すぎる家の電気を点けて、北村はダイニングテーブルでノートパソコンを起動した。
メール画面を開き、[作成]ボタンをクリックして宛先欄に[sakuradasanae@]と入れる。別れた妻との連絡は、モバイルではなくパソコンメールで行う取り決めだった。一緒に暮らしていた時は、脱いだ靴下を洗濯カゴに揃えて入れるくらいがルールだったのに、[離婚届]という紙切れが形式ばった決め事を増やしていた。
それにしても、再婚後のフルネームをアカウント名にするなんて。桜田早苗なんてジョークみたいな名前より、北村早苗の方がずっとおさまりがいい――ふと、北村はネガティブな感情に傾いた自分を卑しく思い、指を止めた。
やめよう。早苗はもう自分のパートナーではないし、目撃者を捜していることを咎めるかもしれない。
メーラーを閉じて、今度は[真理絵]のフォルダを開いた。
画面いっぱいに整列したJPEGファイルは、それぞれが拡張子の前に6桁か8桁の数字を持っている。いちばん小さな数の[198907]は真理絵の生まれた西暦年・月で、次が[198912]。それらは分厚いアルバムから抜き取った写真をデジタル化して、北村のノートブックに保存したものだった。
[20041201]以降は、もともとデジタルデータだが、そのほとんどが母親の撮影で、離婚が決まってからコピーを譲り受けていた。
高校の入学式・学園祭・母子ふたりの温泉旅行……編集長仕事で土日も不在だった父親は、デジタルカメラの使い方さえ覚束なく、初めて見る写真ばかりだった。
この1か月あまりで何度も開いたファイルを、また順々にクリックしていく。
幼児から少女へ、少女から女性へ成長していく娘に会い、鳩尾(みぞおち)に焼きゴテを当てられたみたいに体が熱くなる。
最後の数字は[20120310]。
それは、事故のちょうど1か月前の写真で、真理絵が北村のモバイルに直接送ってきた卒業旅行のショットをパソコンに転送したものだった。
画像を拡大して、北村は右の人差し指で彼女の細部に触れていく。
髪の毛・目・鼻・頬……。
親指の腹にある傷を、薄紅の上唇にあて、左から右へゆっくりなぞる。
宵闇のすっかり下りた時刻になって、一羽のカラスが窓の外で叫声をあげた。
立ち食いそばのかき揚げが胃にもたれ、ペットボトルの水を大量に飲んでから、北村はパソコンの電源を落とし、リビングでテレビに向き合った。
野球中継。
出向後は朝方の仕事スタイルになり、帰宅時間の早まりがナイターとの付き合いを増やした。そうして、子供の頃にファンだった在京球団への愛情がいつのまにか再燃していた。
イニングの表示に、北村は「おやっ」と思う。
もう9回表だった。20時前のこの時間は、普通ならゲームの中盤だろう。
興奮気味な実況が背番号18を追いかける。
[あとアウトカウント3つ。プロ野球史上、16人目の達成か!]
週半ばのありふれた試合が[完全試合]の偉業に近づいているのを知り、北村は喫驚してボリュームを上げた。
ドラマの主役がイニング最初の右打者に初球を投じた。ピッチャーゴロ。球場の歓声が8畳の部屋までこだまする。
ひとりの出塁も許さず、1イニング3人ずつのアウトで試合が終わるのはアマチュア野球でさえ珍しいことで、ゲームの進行の早さが、奇跡の誕生を物語っていた。
カメラがスコアボード上のアウトカウントの赤いランプを捉え、今年移籍してきたばかりのエースがグローブを外してボールをこねる。
北村の両腕が毛穴をぎゅっと縮め、鳥肌を立てた。
左打席に立った2番目のバッターはあっという間にツーストライクに追い込まれ、力のあるストレートにバットが空を切った。三振。球速が画面に出て、再び電光掲示板のランプがズームアップされる。
あと一人。
右手のペットボトルをテーブルに置き、北村はソファから身を乗り出した。
すし詰め状態のスタンドでは、オレンジのタオルを首にかけた観客が総立ちで拍手を送っている。声を高めたアナウンサーは、数十年に一度あるかないかの歓喜をとめどなく伝え、キャプテンを務めるキャッチャーが一息入れてから27人目のバッターを迎え入れた。
相手打者がスライダーを強振して、バックネットにボールが弾け飛ぶ。ファウル。
テンポよく投じられた次のふたつの球はひとつがコースを外し、ひとつがホームベースをまっすぐ横切った。ワンボール、ツーストライク。
スタンドのボルテージは最高潮に達し、中継マイクが沸点のどよめきをあますことなく拾い上げる。
最後の1球か――。
[奇跡]と呼ぶべきドラマはちょうど10日前にもあった。
金環日食だった。
娘を亡くした父親は、早朝のその天体ショーには目を背けたが、今夜の奇跡の瞬間は固唾を飲んで見守っている。
ドキンドキンと心臓が胸を激しく打つ。
北村は、過去でも未来でもなく、いまここに在る自分を強く感じた。
そして、なぜか急に、家族と一緒だった時間が胸の内に荒波となって押し寄せ、テレビの色彩がぼやけていった。
(7/8へ続く)
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