STORY5 いまがいちばんかわいい時(5/8)

形状の異なるグラスでかたちだけの乾杯をして、佐々木が店主にそう告げた。

北村は「いまは佐々木と同じ会社にですが、卓也さんとは面識がありません」と足し、蒸留酒を口に含んだ。

カウンターの内側で金城が頷くと、光量の加減がセーターに届く髪を飴色に変えた。

佐々木は3年前に金城卓也が亡くなったと言っていた。母親はそれから1000日以上の時間をどう過ごし、いま、どんな気持ちで我々を受け入れているのだろう。この店はいつから?夫は?他の家族は?

北村の中に、昨日の交番が甦る。

――この人は、息子を飲み込んだ海に何回行っただろう。


「卓也は仕事が終わると、このお店を手伝ってたんですよ。ホント、タフな男だったなぁ」

右側の上司に体を向けて、佐々木が言った。

「ここは暇なんだから来なくてよかったのにね……まぁ、そのおかげでお客さんが増えたけど。佐々木くんが来てくれたように」

「結構、会社の連中もこのカウンターで飲みましたよね。なんのかんので、結局、僕らはご馳走になっちゃいましたけど……」

はにかんだ目で、佐々木が自分のグラスを小刻みに揺らす。

「懐かしいわね……みんな元気かしら?」

髪に潜らせた手でイヤリングの位置を正しながら、金城がふうっと息を吐く。

そして、昔の出来事が現在(いま)に繋がっていることを慈しむ笑みを浮かべた。

「そう……『編集長』で思い出したけど、卓也も雑誌に載ったのよ」

チェイサーを北村の前に置き、金城が唐突に切り出した。

「あの子の行った海のそばが有名な心霊スポットみたいでね。サーファーのことが取り上げられたの」

「最近ですか?」

前のめりに、佐々木が声色を強める。

「去年の夏よ。名前までは載らなかったけど、プロ級のサーファーが命を落としたって書かれてたわ」

北村は胸のざわつきを覚えた。母親は少しも深刻にならず、まるで別れた恋人でも思い出す感じだ。

「それで、まったくの偶然だけど、その雑誌の編集長がここに来たのよ。だから、わたしは言ってやったの。せっかくなら、名前を載せてほしかったって」

母親は声を出して笑った。

北村は、ほんの一瞬、彼女の目尻に光るものを見た気がしたが、おそらくそれは照明のいたずらで、もてなし上手のバーの店主はくしゃみを二度続けて、いっそう派手に笑った。


シャンソンが途切れ、BGMが切り替わる。

ベートーベンのピアノソナタ。

小学生の真理絵がピアノ発表会で弾いた旋律がスピーカーから流れ出る。

「……僕も娘を亡くしたんですよ」

ふと、北村から短い告白が零れた。

金城はナッツの袋を開けかけた手を止め、初対面の客から顔馴染みの佐々木に視線を移す。

「……北村部長は、まだ最近なんです」

役割を心得た調子で部下が会話を継ぎ、それ以上は自分が話すべきではないといったふうに口を閉ざした。

一呼吸置いて、北村はタバコをくわえ、煙とともに外気を吸い込んだ。

ロックグラスの氷がカタリと音を立てて液面の位置を変える。

「別れた女房との子ですが……突然の事故で、いまでも信じられないというか……」

父親は引き篭る気持ちを掬い取って、行く場を失くした聞き手たちに言葉を紡いだ。

「……お嬢さんは、おいくつ?」

「23でした。この春に就職したばかりで……バス通勤じゃなければ、事故には遭わなかった」

北村が自分の口から他人に伝えるのは、本社の役員と人事部に報告して以来だった。

「一人娘で……私の勝手であまり会えなかったからし……」

敬語を棄てたつぶやきがアルミ製の灰皿に滞り、アレグロだったピアノが楽章を移してアダージョになる。

「ごめんなさい。わたしが卓也の話なんかしちゃったから」

「いや、いいんですよ。ひとりで考え込むより、こうして話した方が楽になりそうです」

上司を凝視していた部下が緊張から少しだけ解放されて、店主へのアイコンタクトで2杯目の飲み物を注文した。終電まではまだ時間がある。

それから、北村は時系列を正して、家族と仕事のことを訥々と話していった。

別れた妻とは大学のサークルで知り合い、親の反対を押し切る大恋愛だったこと。扁桃腺持ちで病弱だった真理絵が学校推薦を受けてロンドンに短期留学したこと。編集長時代は本社で社長賞をもらうくらいに雑誌が売れたこと。

どれもが自慢めいたエピソードだが、低く落ち着いた語り調と父親の現在の境遇が空気の尖りを抑えていった。

酔いを感じながら、北村は店主や部下の話も聴こうとしたが、ふたりは「今夜の主役はあなただから」という眼差しで聞き役に徹した。

やがて、真理絵は成人になり、大学を卒業する。就職氷河期を乗り越え、勤め先も決まり、入社日の夜にメールが届く。

「パパ、ちゃんとご飯食べてる? 初めての給料が楽しみ。バス通勤も意外に楽(らく)そうだよ」

そして、事故。

北村の唇の動きが停まる。

灰皿で複数のタバコが折れ、ロックグラスがコースターに貼り付く。

加害者のトラック運転手も死んだ。

生煮えの事故原因が種火となり、怒りの炎(ほむら)が憎しみの風に煽られ、[父親]を表札にした家屋も朽ち落ちた。

真理絵と、もう一度酒を酌み交わしたかった。せめて、別れた妻と感情を分かち合いたい。

掠れ声を紡ぎ、この1か月間、事故の目撃者捜しに奔走し、ついには交番に連れて行かれたことまで吐露した。

「会社を休みがちになってしまい……申し訳ない」

心底の澱を部下に小さく告げる。

「いえ、僕らはいいんです。会社は大丈夫ですから」

店主は客同士のやりとりを追いかけた後、卓上カレンダーに虚ろな目線を預けた。そうして、ふたりに向き直り、何かを言いかけて止める。しかし、そんな思案の出入りを北村に気づかれたことで、ためらいを打ち消した。

「北村さん、わたしね、真理絵さんの事故で生き残った人の知り合いを知ってるの……店にたまに来る派遣会社の課長さんで、事故に遭った女性を派遣登録してたんだって。だから、彼女の……目撃者の連絡先を聞けるかもしれない」



(6/8へ続く)

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