STORY6 1÷0(3/8)

片岡先生に出逢い、あたしは日曜日の礼拝を習慣にした。

それまで、仕事のない日の午前中はキミの吹奏練習につき合うのが生活の一部だったから、ひとりぼっちの部屋は耐えられないし、告解するのがせめてもの義務だと思った。

しかし、耳にする賛美歌にもキミのトランペットの音が重なり、教会に集う人たちに倣ってみても、神様に赦されるはすがなかった。

キミ自身とキミのトランペット。

それは、紛れもなく、あたしの人生そのものだった。

彼は運送会社の仕事を「プロのトランぺッターになるための手段」と言い、将来の夢を約束手形にして、けして楽じゃない肉体労働を選んだ。

「給料も悪くないし、車の中でラジオも聴けるんだぜ」

新卒入社したベンチャー企業を急に辞めてしまったキミは、一緒に暮らすあたしを安心させるために、採用通知を過剰に喜んでみせた。

やがて、CDも運転席へ持ち込めるようになり、愛蔵盤を通勤鞄に入れて仕事に出ていた。


足場の悪い道を進み、腋の下が汗ばんでくる。聖書を初めて開いた時と同じくらい、心臓が激しく打つ。

いきなり、ふたりの男の子が忍者みたいに体をくねらせ、あたしたちの横をすり抜けていった。お揃いのナイロンパンツを履いた兄弟で、きっと、小学校の振替休日か何かだろう。息せき切った父親が子供の後を追いかけていく。

膝を折り、突き出した岩に足をかけたあたしに、「小さい子は体が軽いから、登るのが速いわね」と、順子さんがお尻を押してくれた。体重の軽さなら、いまのあたしも引けを取らないのに、少しの傾斜も未開の荒れ地に感じた。山の空気をちょっと吸いに行く程度に考えた自分に、ますます後悔の念が募る。

スニーカーはもちろん、ジーンズの臑やふくらはぎも土埃を浴び、気管支が喉の皮膚に張り付きそうだった。


プロのトランペッターを目指していたキミは、今年の節分の頃から胸の痛みを口にするようになった。

症状の程度が分からないあたしは、「たいしたことない」と打ち消す本人の言葉を信じて、何のケアもしなかった。

報酬の良さで「夜勤」を希望し、不規則な生活サイクルの中で、キミは勤務明けの朝にも練習を続けた。あたしの出勤後にひと眠りしてくれれば良かったのに、トランペットを手放さなかった。それは、趣味じゃなく、夢への執念というもので、アマチュアからプロへのハードルを越えられない自分に苛立ち、涙ぐむこともあった。

「人の2倍も3倍も努力しなきゃ、才能のない奴はミュージシャンになれないんだ」

そう言って目を伏せるパートナーに気の利いた助言を送れず、高校卒業と同時にフルートを止めたあたしは、「プロになる、なれない」よりも、キミが希望を失ってしまうことが怖かった。

他人(ひと)にはきれいごとに聞こえるだろうけど、ふたりで一緒に暮らし、キミがどんな仕事をしようとも、笑顔で明日を迎えられれば満足だった。


「もうちょっとで、休憩所だよ」

鋭角な石が減り、少しだけ平らになった場所で、片岡先生があたしと順子さんに肩を並べた。

山頂は[二十八丁目]だから、まだ半分も来ていない。でも、すでにギブアップ状態なあたしは[休憩]を喜ぶ余裕さえない。

中高年の団体が朗らかな挨拶を向けて通り過ぎていく。

一瞬だけ立ち止まって額の汗を拭うと、聞き慣れない鳥の声が耳に飛び込んできた。縄張りを主張し合う感じの刺々しい鳴き方。

あたしは、視線をまた上方に移す。

木立の密度が低く、今度は空の様子をはっきり伺い知れた。

陽が明るさを増し、朝方より高い場所にいるのに吐息の白さが目立たなくなっている。

進路に背を向けた片岡先生が、あたしたちの動きを確認して、力強く頷く。怒りの感情を永久に遠ざけた瞳。誰をも威圧しない体の線――いま、先生に[嶋マユナ]はどう映っているんだろう。

「思うこと、考えることを、神に話しなさい。そして、あなた自身も誰かの語ることに耳を傾けなさい」

片岡先生は聖書とともにそう諭し、6月の礼拝で、あたしは最初に牧原さんのことを祈った。亡くなった4人と遺族の方への贖罪の気持ちはみんな同じ重さだけど、牧原美保さんには手紙を直接渡せたうえ、2度もお会いしていた。


事件から1か月が過ぎ、オリンピックの話題が週刊誌の中吊り広告に踊り始めた頃……あたしはB5サイズの便箋に言葉を書いては消し、何度も何度も直して、文章を綴った。

そして、あたしは牧原さんに土下座したのだった。

玄関たたきでタイルの床に頭を擦りつけた。

申し訳ありません。申し訳ありません。申し訳ありません……

額の先にあるビジネスシューズは亡くなったご主人の……牧原賢治郎さんのもので、甲革の一部が鈍い光沢に転じていた。血の痕だった。

腕を組み、上がり框(かまち)で下唇を噛んでいた牧原さんは、あたしの手紙を受け取ると、身体を前のめりにした。

返してよ! あの人を返してよ! あんたの夫を連れてきなさいよ!

背骨を突き刺す怒声と叫喚。

ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……

目線を上げられず、謝罪を繰り返した。

どうして……どうして。あんたの男は、どうして……

肩を激しく揺さぶられた時、誰かが間に入った。あたしのうろたえた感覚はその男性の白髪しか記憶せず、「今日はお引き取りください」というしゃがれ声だけが鼓膜に残った。

帰り途(みち)、駅前の商店街に続く踏切で、ようやく手土産を持ったままなことに気づいた。とめどない涙が駐輪場を染める斜陽を水中の光線みたいに変え、自転車の輪郭までも消し去った。

キミの亡骸(なきがら)にすがった時に涸れ果てた涙が、その日もずっと止まらなかった。



(4/8へ続く)

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