STORY5 いまがいちばんかわいい時(3/8)

ベランダの先では、高層マンションの灯が瞬いている。

真理絵がピアノを習い始めるまでは、そこに富士山のシルエットがあったのに、不動産チラシのセールス文句は予告もなしに風景を変えた。

この地上10階の住戸を買ってまもなく、妻の早苗は夫の北村に妊娠したことを告げ、桜色に染まった公園をベランダからふたりで眺めて缶ビールを空けた。子供を産むまでの、早苗の最後の飲酒だった。

「男の子の方がいいわ。だって、女の子で早くに結婚したら、この家からすぐいなくなっちゃうでしょ」

弾んだ口調で早苗は言い、長い髪を風に揺らした。

そうして、「僕らのどっちに似るかな?」と北村が目を細めると、「女の子だったら、あなたに似るんじゃない?」と微笑み、まだ膨らんでいないお腹に手をあてた。

当時は、太陽も月も星も桜も、北村には全てが輝いて見えた。

しかし、妻の早苗は去り、娘の真理絵にはもう二度と会えない。

音のない部屋で、人生の緞帳(どんちょう)が下りるのを感じながら、北村はコンビニ弁当の蓋を開けた。


◆◆◆


オフィス近くの海鮮居酒屋で、宴は定刻どおりに始まった。

忘年会や新年会シーズンは鍋物や飲み放題コースで予約をいっぱいにし、季節の変わり目でも新鮮な魚介類をリーズナブルに提供する人気店だ。

幹事で副部長の佐々木は、「端の席でいい」と及び腰の北村を上座へ導き、手際よくオーダーを通した。

「それでは……皆さん、今日もお疲れ様でした! 乾杯!」

2名の社員が欠席しただけの総勢14名のグループは、控え目な発声でグラスを上げた。

アルコールの飲めない者が真っ先に大皿料理に手を伸ばし、店員が周囲を慌ただしく行き来していく。

営業の世界とは程遠い人材の集まりは、親会社の飲み会とはテンションが違うが、15分もしないうちに、隣りや向かい同士の会話が輪を拡げ、会議室ほどの空間はプラットホームに似たざわめきに包まれた。

北村にとっては久しぶりの飲み会であり、真理絵の事故後にこうした場に出るのは初めてだった。


「部長はお休みの日は何をされてるんですか? 奥様とお出かけですか?」

右側の女子社員がピッチャーを傾けて、北村に尋ねた。

特異なメガネをかけた彼女は中途入社のウェブデザイナーで、結婚適齢期の自分を鼻で笑う強者だ。パーカーにジーンズという格好は勤め帰りのOLというより、大学サークルの飲み会に現れたOGのようだった。

「……いや、まぁ、いろいろと」

上長の北村はしどろもどろに答え、目線を下げた。離婚経験を知らずに問いかけてきた相手に、上手い嘘も浮かばない。

「レイちゃん、上司のプライベートを訊いたら失礼よ」

女性陣のリーダー格がポテトサラダを取り分けながら忠言した。

「……いや、構わないよ。ちなみに、私はいま独り暮らしだよ」

「あっ、すいませ~ん!……北村さんって、奥さん一筋のイメージだから」

ペロリと舌を出して、デザイナーが自分のグラスに手をかけた。焼酎をメロン果汁で割ったドリンクは、店員のユニフォームと同系色で、北村には子供用のソーダ水に見える。

「奥さん一筋」――まさか、そんなふうに見られるとは。私のどこに良き夫のイメージがあるのだろう。くたびれたスーツと使い古したネクタイ。離婚してもなお、マイホームのローンに追われる吐息が生活臭となって表れているくらいだろう。

北村はビール泡のついた口元を拭い、テーブルの上をぼんやり見つめた。

揚げ物の油を吸ったレタスがしなだれ、皿からはみ出た1枚は調理前の鮮度を失っている。

定年までまだ二度の閏年を迎える時間があるのに、こうして「離島」の出向社員になり、独りで暮らしていること……熟年離婚なんて言葉で括りたくないが、別れた理由が自分の不貞ではなく、妻だけの決意だったのが人生という木の落葉を早めたと思った。


「真理絵も大学生になったし、離れて暮らすっていうのも、お互いの生き方の尊重よね」

そう切り出された。

実家も近く、然るべき職を持ち、早苗は自活できる経済力があったので、後に再婚したという話を聞いて北村は驚いた。新しいパートナーを見つけるのが早かったことから「もしや?」という疑念は浮かんだものの、彼女を恨めしく思う気持ちにはならなかった。

家庭は二の次で、ひたすら仕事に溺れた自分。編集長になった頃から、すでに緑の生い茂りは冬へ向かい、真理絵との再会だけが枯れ枝に葉を残していた。そして、真理絵のいない現在(いま)、流木となった細木は、岸の見えない沖に浮かび、打ち寄せる三角波に身を委ねるだけ。

久しぶりに飲んだビールを北村が苦く感じるのは、けして味覚のせいだけではなかった。


やがて、飲み物のピッチャーはジョッキのオーダーに移り、お腹を満たした社員がトイレに立つタイミングで席を替えていく。

誰もが知った仲だから、家族的な笑顔にあふれているが、過剰な騒ぎはない。飲み会にありがちな無礼講や諍いとは無縁な空間だ。

気の利いた上司なら、部下を慰労し、宴席を盛り上げるのかもしれないが、北村は椅子から動かず、周囲のやりとりに適当な相槌を打って、愛想笑いを浮かべるのが精一杯だった。

副部長の佐々木がいつの間にか隣りに座り、引き出しの広いトークを重ねていく。仕事のこと、趣味のこと、家族のこと。ここでは管理職を兼ねた制作ディレクターだが、前職が広告代理店の営業マンだったためか、酒に強く、小さな組織において異質な光を放っている。次の部長職は本社からの出向社員ではなく、この男が務めるべき――溌剌とした仕切りに北村はいくばくかの羨望を感じつつ、佐々木の横顔を見つめた。

「副部長……キンジョウさんって、どんな人だったんですか?」

特異メガネのデザイナーがグラスを置いて尋ねると、佐々木はウェーブのかかった前髪を掻き上げながら「そっかー、みんな、もうあまり知らないんだもんなぁ」と返した。



(4/8へ続く)

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