STORY5 いまがいちばんかわいい時(2/8)
◆◆
快速電車と各駅停車を乗り継いで、北村は自宅のある町に戻り、カフェの窓際席で一息ついた。馴染みの場所だ。
駅前のその商業ビルは、1階がドラッグストアで上階のすべてが飲食店になっている。
飲食店と言っても、カフェ以外は居酒屋ばかりで、昼間はエレベーターの稼動がほとんどない。ビル全体が深い眠りに就いている感じだった。
どうせなら、警官たちに事故前のバス停のことを訊いておけば良かったと、北村は舌打ちした。
あの朝、真理絵がどんな容態で病院に運ばれたかは管轄の警察署員が教えてくれた。救助の様子や事故の惨状は報道で知っていた。しかし、それらは[事後報告]であり、マンションの住人に聞きたかったのは、事故が起きる前の娘の様子だ。彼女の視線・表情・バスを待つ様子……。
真理絵の目に映った光景を自分の目にも焼き付けたい。叶わぬことと分かっていても、そのほんの一片(ひとかけら)が欲しかった。
北村は、スマートフォンとマルボロライトをテーブルに置き、アイスコーヒーにミルクを入れる。
すっかり、このカフェが生活の一部になった。仕事のある日も早めに家を出て、コーヒーとタバコを飲む。ピアノソナタのBGMを聴きながら、独りで窓の外を眺め続ける。
まもなく、会社の始業時間だ。
オフィスの社員は「部長のキタムラはまた休みか」と呆れるにちがいない。いや、上司の存在などどうでも良く、パソコンを起動し、そそくさと自分の仕事に取りかかるだろう。
ストローで液体を撹拌すると、ミルクが時計周りの渦を描いて容器の底に吸い込まれていった。墨色の飲み物が焦げ茶からキャラメル色に変わり、角をぶつけ合った氷が動きを止める。
2年前は、こんな時間を過ごすなんて思わなかった。
当時49歳だった北村は、[時間]を買えるなら財布を空にしても買いたいと思いながら、印刷物の山とカレンダーの日付に追われていた。人生のパレットは多忙という塗料であふれ、キャンバスには喜怒哀楽の感情が隙間なく描かれていった。一国一城の主である雑誌編集長の肩書きで、がむしゃらに走り続けた毎日……それが現在(いま)は、他人に売っても余りある時間と暮らしている。
出版の仕事が生活そのものだったから、妻と娘は自分のもとを離れていった――コーヒーがミルクを溶かすように、現在(いま)の北村は過ぎた事実をそう受け入れるしかなかった。
半袖シャツのサラリーマンが青信号の点滅に走り出し、突進してきた自転車にぶつかりそうになる。体をよじって衝突を避け、駅の改札口へ消えていく。
何気ない光景を追いかけて、北村は2本目のタバコに火を点けた。
編集長という身分が恒久に続くとは思わなかったものの、離婚後の[出向辞令]は骨身にこたえた。社内異動ならまだしも、勤務地の変更は転職に等しいインパクトだった。
編集長を辞める時は雑誌も寿命を迎え、「フランダースの犬」のラストシーンみたいに共倒れする……そんなナルシシズムな終(つい)もなく、自分だけがあっけなく編集部を去った。城を奪われ、国を追われるように。
斜め向かいの席で、ハンチング帽を被った初老の男がスポーツ新聞を拡げている。
ページをめくる乾いた音がピアノの旋律に逆らい、次第にテンポを上げていく。
北村は白髪の増えた側頭部に触れて、ため息する。
この1か月で頬骨(ほほぼね)が目立つようになり、足腰の筋力も落ちた。アイドルタイムのカフェが、まるで自分の身体(からだ)に空いた洞(うつお)に思えてくる。
グラスを半分空けたところで、北村はスマートフォンに向き合った。
待受画面を見つめ、真理絵に繋がる糸をもう一度手繰り寄せる。
片側2車線の道路。往来する車。停留所に並ぶ人々。
20秒あまりの映像をじっくり見直す。
あれだけの大事故だったのに、そこにはまだバス停があった。忌まわしい出来事の爪痕は街中から消え、何の変哲もない情景が映されていた。
やり場のない閉塞感に息がつまり、スマートフォンを握る手に視線を落とす。
親指の腹にある1センチの傷。ペン先で引っ掻いたみたいな線が赤みを帯びた肌に白く浮いている。
真理絵がまだ小学生の時。母親の留守中に父子ふたりでお好み焼きを作ろうと、半分に切ったキャベツをまな板に乗せた。千切りができるようになった娘と包丁使いを競うつもりだったが、左利きの自分の肘が右利きの娘にぶつかりそうになり、タイミングをずらしたはずみに刃があたった。真理絵は指の付け根を強く押さえながら、溢れ出る血を吸い続けてくれた。
北村はカフェからまっすぐ帰宅せず、繁華街に出て、行き当たりばったりの映画館や電器量販店で時間を潰した。
それから、ビルの稜線が夕陽に染まる頃に再び電車に乗り、地元のコンビニで弁当を買い、2LDKの棲み家に戻る。
ソファに体を預けると、会社を休んだ後悔がじんわりと沸き出てきた。有給休暇の取得がめっきり増えたのは、誰とも対話しない時間が精神の安定をもたらしたからだ。
しかし、今日はオフィスで部下のおしゃべりを聞く方が良かったと思った。組織に自分が必要とされていないと分かっていても、彼らと接した方が気休めになったはず。交番に連れ込まれた記憶を薄めたい。目撃者に会って、話に耳を傾けたい。
換気目的でリビングルームの窓を開け、スマートフォンのリモート機能で会社のメールをチェックする。
どうせ何もないだろう……自虐的な思いと裏腹に、TO北村和幸のメールが1通入っていた。たいていの受信は業務連絡のCCだったが、直属の佐々木から「制作部部長/北村様」とある。
「お疲れ様です。お休みのところ申し訳ありません。」の挨拶に続き、「明日の水曜日に全社的な飲み会を行うことになったので、スケジュールが合えば顔を出してください。」と書かれていた。
全社的な飲み会と言っても、制作部と経理兼総務部のたった16人の会社で、事業は親会社が発行する出版物のデジタル化だけ。少数精鋭と言えば聞こえはいいが、はたして、100%子会社の別法人として存在させる意味があるのか? 前任の制作部長も出向社員で、出世街道を外れた定年間際の男だった。
――島流し。
唇を噛む。
しばらく迷った後で、北村は「了解しました。」と短く返信した。
(3/8へ続く)
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