STORY4 ICTL(8/8)
日食は続いたが、8時を過ぎたところで、4人は家の中に戻った。
紙コップの紅茶を飲み干し、帰り支度で深々とお辞儀した照美を、田原夫婦が引き留めた。
「何のおもてなしもできないけど、サンドイッチを作るから食べていって」
返事を待たずに、杏子がキッチンに立ち、冷蔵庫から食材を取り出していく。
「まぁ、コーヒーでも飲んで……」
田原が言い、照美は身動きを止めて自分の行動を省みた。手土産も持たず、早朝から他人(ひと)の家に押しかけ、朝食までいただくなんて……。
「いえ、わたし、ほんとに失礼します」
ハンドバッグを手にした来客に、田原が真顔で近づき、「娘には久しぶりのお客さんだから……時間があれば、もうちょっと我が家につき合ってください」と耳打ちした。
ほどなくして、短時間で作ったとは思えない量のサンドイッチがテーブルに並んだ。照美の横に母親の杏子が座り、その前で、娘の未来がマグカップを傾ける。
「見事だったね」と田原。
「あなた、雨男だし……今日はダメかと思ったわよ」
「オレが雨男だとしても、うちだけのイベントじゃないからな」
妻のツッコミに、夫はハムサンドを頬張って笑った。
「石井さんが来てくれたから、お天道様が気を良くしたのよ」
杏子のアイコンタクトをはにかんで、照美もサンドイッチに手をかけた。天体ショーの興奮が、まだ血液の中を巡り、東京にひとりでいたら、「奇跡」に触れていなかっただろうと考える。
「未来……石井さんもワンちゃんとお別れしたばかりなんだよ」
父親の呼びかけに娘は不意を突かれ、ゴーディの話がいきなり出たことに照美自身も顔を火照らせた。
田原は、6年間飼っていた柴犬の話と、未来が学校をしばらく休んでいる日常を淡々と語った。
照美にとっては、親友からうっすら聞いていたことだが、当事者自身の打ち明けは事実に裏打ちされた重みがあった。
その後で、父親は照美の了解を得て、ゴーディのプロフィールを娘に伝えていった。
「とてもお利口だったそうだ」「まだずっとそばにいるんだよ」
「……ゴーディ?」
初めてまともに交わった目線に、照美がしっかり頷くと、未来はコップの縁を触りながら、「ジー・オー・ディー」と発音し、その先が解らないといった表情で口をへの字に結んだ。
「……ディーの後は、アイとイーで、ゴーディよ」
胸のつまりを抑えて、照美が掠れがかった声で綴りを教える。
「いい名前だね。ジー・オー・ディーでゴッド」と田原。
娘は大人たちの言葉に反応せず、食べかけのサンドイッチをお皿に残して、ダイニングルームを出て行った。
「……ごめんなさいね。いろいろ難しい年頃なの」
杏子が照美に謝ると、田原は娘のマグカップを見つめ、「そのうち、学校にも行くだろうさ」とひとりごちた。
しばらく、3人は当たり障りのない会話を続けた。
「日食メガネをクライアントにもらって4つになったので、石井さんを誘ってしまった」と、夫は眉を掻き、「庭の手入れを怠っているので恥ずかしかったわ」と、妻は唇を噛む。患者ではなく、クライアントと呼ぶのがいかにも心療内科の医師らしいと、照美は些細な気づきを心に留めていく。
それから、父親も母親も、自室に篭る娘には触れず、照美を昔ながらの知り合いのように玄関まで送り、「良かったら、またご飯を食べに来て」と声を揃えた。
「ありがとうございます」
丁重に頭を下げた照美に、院長に戻った田原が次のカウンセリングを約束する。
と、その時、奥の方で扉の開く音がした。
「あら、未来……ちょうど良かったわ。石井さん、また来てくれるそうよ。未来もご挨拶なさい」
母親が呼び寄せた娘を、父親は自然な仕草で自分の傍に置いた。
「これ、あげる」
何の前置きもなく、未来が照美に掌を差し出した。
アルファベット・ビーズのアクセサリー。
「ブレスレット?」
杏子が前のめりで覗き込むと、未来はもう一方の手でそれをつまみ、「早くしまって」と照美に無言のメッセージを送った。
サイコロに似たキューブがピンク色のゴム紐で結ばれている。
同じ形状のものが、未来の手首にも付いていた。
「アイシー?……石井はIとCじゃないけどな」
文字を見て、意図に気づいた父親がつぶやくと、娘は目つきを鋭くして「これでいいのよ」と突き放した。
「アイシテルね」
間髪を入れず、ダブル・ミーニングを読み取った母親が重ねる。
ICTL☆GODIE
10個のカラフルなビーズが文字面を並べて、言葉を作っていた。
ICが名字で、TLは名前――石井照美とゴーディ。
「ありがとう……」
思いがけないプレゼントを、照美は両手で包み込んだ。
「明日から学校行くよ」
大人たちがかろうじて聴き取れる程度の声で、未来が眼差しに意思を浮かべた。
時間が止まり、空気が色を変えていく。
玄関扉の縦長の磨りガラスが、外の明るさを薄明かりに変えている。
「そう……頑張れるんだね。頑張って……」
自然と照美の口から一滴(ひとしずく)のエールがこぼれる。
すると、自ら発したその言葉が、急峻な崖を流れる川になって、感情の堰に押し寄せた。
目の前で、未来がほんの小さな笑顔を見せる。
その瞬間、照美は「わあっ」と声を上げた。
崩れるように膝をつき、脆く壊れそうなブレスレットを握りしめて、家族の前で泣いた。
涸れるまで泣いた。
そうしてやがて、肩の奮えが治まるにつれ、不思議と、体が軽くなっていくのを感じた。
おわり
(STORY5へ続く)
■連作「キミの短い命のことなど」
STORY4「ICTL」by T.KOTAK
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