STORY4 ICTL(7/8)
「石井さん、どうぞ! もう、日食は始まってますよ」
緑にあふれた庭の中で、ジャージ姿の田原が照美を手招きした。
サンダルを借りた照美は、粗相がないよう庭に出て、田原に挨拶する。
「未来(みく)、こちらが石井照美さんだよ。ユキねえちゃんの親友で、東京に住んでいるんだ……こいつは未来(みく)です。小学4年生」
言った後で、田原は隣りの小さな肩に手をかけた。
娘は表情を変えずにちょこんと頭を下げ、父親の紹介を恥ずかしがるそぶりで後ずさると、母親と並んだ来客を上目遣いで見つめた。
Tシャツが胸の膨らみをわずかに表しているが、幼さの残る顔だ。
ペットを亡くして学校に行けなくなった――幸恵の打ち明け話が、イメージを強めて照美をよぎる。
娘は父親の陰に隠れるように立ち、雨を確かめる仕種で掌を上に向けた。
リビングルームほどの広さの庭には見慣れない紫の花が咲き、泥のついたバケツがブロック塀のそばでひっくり返っている。
口をつけた紙コップを、妻は夫に差し出し、田原は同じ動作で娘にリレーしたが、未来は首を振って拒んだ。
雨はすでに止み、水滴を宿した木々の葉がたおやかな風に揺れる。
海のそばの住宅街の一角だが、草の甘い香りがするだけで、潮の匂いはなかった。
「いただきます」
照美も飲み物を口に含む。
ストレートのレモンティーが程よい酸味と熱さを保ったまま、胃の中へ滑らかに落ちていく。
「雨はもう大丈夫だよ。肉眼でも見えるんだ」
カウンセリングの時とは別人の田原が興奮気味に言った。
「直視しちゃいけないのよ。目がやられちゃうわ……石井さん、これ」
杏子は鑑賞用のメガネを照美に預け、何もしない時間を惜しむ振る舞いで、自分のものを顔にあてた。
テレビのニュースで [ツール]を知っていたものの、それを持参してこなかった照美は、礼ではなく、「ごめんなさい」と言い、プラスチック製の日食メガネを手にした。全体の大きさに較べ、グラス部分の面積が極端に小さく、ストラップ用の穴が両側にふたつある。
田原の家族と横一列に並び、まず、照美は裸眼で見上げた。
高い建物がどこにもないため、ホワイトとグレーの絵の具を塗り合わせたキャンバスが全方位に拡がっている。
そして、その一部分に色を明るくした場所があり、急いでメガネを向けてみたが、視界が暗転するだけで何も見えなかった。
数秒前より雲が厚くなり、光の透過を弱めている。
「たまに見えるんだけどなぁ……」
田原が嘆息する。
早朝の肌寒さは薄れ、もはや傘も必要ないが、青空になる気配はなく、大小さまざまな雲が重なり合って同じ方向に移動する様は、巨大な絨毯がスライドしていくようだった。
4人は無言のまま、しばらく空を眺め続ける。
「おっ、見えるよ!」
田原の声とともに、光源の輪郭がはっきり見えた。
太陽なのに、いつもの太陽ではない。右側の半分以上が円(まる)くえぐられ、白銀の[三日月]に変化していた。
日食だ。
照美は再びグラスをかざしたが、地上に届く明かりが足りず、映像はかたちを成さない。雲の加減で微妙に強まる明度は瞳を痛めるほどではなく、目を細めて肉眼で見る方が的確だった。
「だんだん欠けてるわ!」
急にテンションを上げた妻に、「あと3分で金環だよ」と夫が応えた。
天体ショーの主役は、ペットボトルの蓋ほどの大きさなのに、地球全体にメッセージを送っている感じだった。
世界中の人々が、いま、この光景を見つめている。照美はそんな錯覚に囚われ、右手のメガネとコップをないがしろにして、固唾を飲んだ。
言い知れぬ不安と緊張が迫り、脈拍が速まる。
太陽という生命の源が光を失っていき、照美は自分の存在さえもこの世から消える気がした。
しかし、[三日月]は体を細めるにつれ、外郭の発光部を少しずつ延ばし、したたかに円を描いていった。
形勢が逆転し、太陽が侵略物を飲み込んでいる。
誰も何も発することなく、照美の横で杏子が1歩前に出て、背中を伸ばした。
左右にたなびく雲の真ん中で、日輪の白と氷輪の黒が鮮やかなコントラストを保ちながら、明瞭なリングをかたち作っていく。
攻撃でも防御でもない、目的をひとつにした、別々の個体による協業だった。
金環が生まれた。
体中の毛穴が開く感覚で、照美は目を凝らした。
どきんどきんと心臓が鳴る。
「すごい」
いちばん離れた場所で、未来の微かな声がした。
「完全なリングだ」
「きれいね……」
田原と杏子が短く重ねる。
奇跡だった。
照美は、いまここにいる自分を、どこでもないここにいる自分を強く意識した。宗教とは無縁の人生だが、神が司る生死と神自身の再生を想った。
まもなくして、ふたつの星は巡り合いの時間を特別なものとせず、それぞれの軌道の中で別れていった。
(8/8へ続く)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます