STORY4 ICTL(6/8)

「バッグはどなたかのプレゼントですか?」

動じずに、医師は冷静な口ぶりで続けた。質問の内側に深い推察と確信がある。

ブレーキの効かない照美は、肯定する替わりにハンカチを顔にあてた。

「……バッグをくれた人にもゴーディちゃんのことを報告してあげてください。それと、ご両親にも。事故のことではなく、石井さんの大切なお子さんの話をたくさんしてあげてください」

強く、揺るぎない言葉だった。

江坂と、故郷のリンゴの花がオーバーラップして、照美は音を出さずにしゃくり上げた。

「来週の月曜日の朝、早い時間ですが、またここに来ることはできますか?」

田原はカレンダーに目線を移し、「うちの家族と一緒に、日食を見ませんか?」と目尻を下げた。

そうして、肩の上げ下げで呼吸を整える相手に「よし、決まり!」と親指を立て、診療を終える意思で立ち上がった。

「石井さん……毎日毎日、ゴーディちゃんを想い続けてください。想い続けるにはエネルギーが必要です。そのエネルギーが、あなた自身の人生の、生きることへの情熱に繋がります。だから、想い続けるのをけして止めないでください。それが、遺された者の使命です」



湘南新宿ラインを使って、照美は田原クリニックに向かう。

診療開始からまだ2週間も経っていないのに、今日で3度目だ。通院に片道1時間半かかり、タクシー代を入れた交通費もかかるが、時間やお金の問題ではない。ゴーディを理解している医師の存在が、行動のモチベーションになっていた。

ロータリーを見下ろすかたちでマクドナルドの大きな看板があり、辺りにいくつかの傘が見えた。

細(ほそ)い雨がアスファルトに落ちている。

街に人影が少ないのは、早朝に加え、およそ1時間後にやって来るイベントのためで、多くの市民が天候の回復を願っているのにちがいなかった。

照美はバス停に背を向け、腕時計を見た。カフェで時間を潰すほどでもなく、タクシーだと少し早い。体はさほど求めていないけど、タバコを吸おう。そう考えて周囲を見回したが、あいにく喫煙所がなかった。

しかたなく、傘をさしたままタクシー乗り場に立つと、オレンジのドアがさっと開いた。

「田原クリニックは分かりますか?」

乗客のかぼそい声に、年若い運転手は仕事の始まりを喜ぶ調子で「はい」と答え、サイドブレーキを解除して、メーターを落とした。

開店前の個人商店が窓の外を軽やかに流れていく。

照美は、スピードを上げなくて良いことを告げ、スマートフォンに視線を落とした。

メールの受信はない。念のため、問合せボタンを押してみたが、「新着メールはありません」のメッセージが出て、数秒のうちに画面が自動消灯する。


昨日の夜21時に、江坂にメールを送った。

医師の指示は絶対的なもの――自分にそう言い聞かせ、鼓動を乳房に響くほど激しくしながら、何度も何度も文字を書き直した。

そして、引き出しの奥にしまっていた封筒の文字を指でなぞった。江坂の筆跡。GODIE。

「石井照美です。ゴーディのこと、覚えていますか? 先月、事故で亡くなりました。」

30分以上かけて、最後はそれだけの文面になった。

アドレスの変更で未送信になれば、いっそ諦めもつく。7年の間に電話番号だって変わっているかもしれない。しかし、そんな思いと裏腹に、メールは送信済フォルダにすんなり収まった。


フロントガラスに落ちる雨がおとなしくなり、雲間からの陽射しが運転席をわずかに明るくしている。

「天体ショーはなんとか大丈夫そうですね」

ハンドルを切って威勢よく発せられた声に「晴れるといいですけど……」と照美は応え、後部座席から空を見上げた。

実家には、日食の話をきっかけに、今晩電話する予定だ。ゴーディの話をちゃんと伝えなくてはならない。

やがて、田原クリニックの看板が見え、照美はふうっと息を吐いた。


「お待ちしていました」

レギンスを履いた女性が玄関の扉を開け、「妻の杏子(きょうこ)です」と微笑んだ。

明るく染めた髪と桜色のポロシャツはけして若作りではなく、「もしかするとわたしと同世代では?」と照美は思った。田原とは歳(とし)の差がある。

「朝早くてたいへんだったでしょう。狭いところでごめんなさい」

スリッパを揃えながら、杏子は初対面の客を招き入れた。

隣接するクリニックと違い、家屋は結構な築年数のようで、リビングの壁に染みついた汚れが照美をどこかほっとさせた。

しかし、田原の姿がない。

促されてソファに座ったものの、気持ちが落ち着かず、ジャケットの第1ボタンを外すかどうか迷う。

キッチンに一度消えた杏子が紙コップを持って現れ、ふたつのうちの片方を来客に渡して奥の部屋へと誘(いざな)った。

6畳の和室は仏壇の他にはほとんど物がなく、畳の上に何かのトロフィーが無造作に置かれているだけ。

杏子がレースのカーテンとガラス戸を開け、「石井さんもサンダルでいいかしら?」と外に向かって呼びかけると、照美の目線の先で家の主が手を挙げた。



(7/8へ続く)

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