STORY4 ICTL(5/8)

改めて、[田原クリニック]のサイトに飛んだ。

トップページでは[心療内科]とだけ謳い、院長プロフィールに[内科医]と記していた。

専門用語を詰め込んだために頭が熱くなり、照美は烏龍茶のパックを冷蔵庫から出して、タンブラーに注ぎ入れる。

そして、再びモニターに向かい、心の症状が身体に表れる場合とその逆のケースの対処法を調べてみた。しかし、いくつかのサイトを見ても納得する答えが見つからず、ブラウザを閉じる。

とにかく、金曜日には田原クリニックにまた行くのだ。診療をちゃんと受ければ、原因が心にあるのか身体にあるのか分かるだろう――照美はヴィトンのバッグと卓上カレンダーをぼんやり見つめた。

はっとした。

今日は、江坂泰司の誕生日だった。

いままで付き合った男の中で唯一覚えている日付。

バッグは江坂からのプレゼントで、「ゴーディのお出かけ用」として再利用したのは、フラれた過去を消化できなかったからだ。処分もできず、普通に使うこともできず、結果的に大切な物であり続けた。

2週間経った事故現場に、主を亡くしたそのバッグを持って供花に行き、帰り道で江坂の電話番号をスマートフォンの画面に表示した。

せめて、ゴーディが亡くなったことを知らせたかったが、商店街の人混みに息苦しさを覚え、発信は未遂に終わった。


鈍色(にびいろ)の窓をバイクのエンジン音がすり抜けていく。

ふと思い立ち、照美はデスクトップから[Facebook]に飛んだ。

「おかえりなさい。テルミさん」のメッセージでログインすると、「知り合いかも?」にいくつかの名前と顔が並ぶ。

衝動を止められず、[友達を検索]のスペースに「江坂泰司」と入力した。

瞬く間に、同姓同名の人物が表れる。

……いた。

上から3番目、親指の爪ほどの写真に忘れもしない笑顔があった。

およそ6年ぶりの再会だった。

ウォールに書かれた生年月日は、たしかに今日が誕生日であることを示し、[好きなものと趣味・関心]の欄に、「息子とのアウトドア(キャンプ)」とあった。

江坂は結婚して、父親になっていた。



目的地に早めに着いた照美は、クリニックの50メートルほど手前でタクシーを降りて歩いた。

動きの速い雲が渇いた風を連れてくるが、夏の海の匂いはまだない。

バスを使えば、時間ちょうどにインターホンを鳴らせるはずだった。それなのに、停留所の行列を避けて、1週間前のように運転手に地図を預けた。


診療室の様子も先週と何も変わっていない。

「どうですか? 体調は悪くないですか?」と田原。

的確な返事が見つからず、照美は「ええ」とだけ答える。

「お薬とタバコはどうされました?」

「……薬は止めています。タバコは1日2、3本です」

「わかりました。我慢しているわけではありませんね?」

万年筆をデスクに置いて、田原は腕を組む。休診日のため、ゴルフ帰りみたいなラフな格好だ。

「では、事故のことをゆっくり思い出してください。催眠療法ではありませんから、目をつむる必要も、私を見る必要もありません」

医師のリクエストに照美はたぎろじ、目線を落とした。

磨かれた床の上で、灰色の埃のかたまりが椅子のキャスター部分にこびりついている。

俯いたまま、田原の次を待った。

「何でもいいので、頭に浮かんだことを話してみてください」

「……わたしは……バス停で、ゴーディを抱いています」

瞼を閉じ、少しだけ顎を上げて、照美は声を絞り出す。

あの日、ゴーディのつぶらな瞳には「お出かけ」の期待が宿っていた。

「隣に並んだ、体の大きな人がわたしたちを見て微笑みました……」

「ゴーディは、石井さんと暮らしているワンちゃんですね?」

照美は目を開けて「はい」と言い、「暮らしている」という現在形を否定せずに情景を浮かべ続けた。


行き交う車。歩道に落ちる朝陽。バスの時刻表。5人の列。先頭の男性は大学生か、鞄には「UNIVERSITY」の文字があった。もう一方の隣の女性は社会に出たばかりのOLらしく、真新しいスーツを着て、スマホで誰かの写真を見ていた。


「バスに乗るのなら、ゴーディちゃんをそのまま抱っこしていたわけじゃないですよね?」

「……バッグに入れていました。出かける時はいつもそうです」

万年筆を持って、医師は文字を走らせた。照美から1メートルくらいの距離があり、記述した内容までは見えない。

「小さなワンちゃんですか? それとも、バッグが大きい?」

田原の声は一語一語をティッシュで包む感じの柔らかさだが、発音がきれいなので、診療室に凛と響く。

「ヨークシャテリアです。7歳の男の子で、体重は3キロです」

「ヨーキーですか……成犬でも、やんちゃですよね」

口角を下げて、医師は発声の輪郭をいっそう丸めた。

この人は、ヨークシャテリアの通称を知っていて、ペットのことも分かっている――照美は幸恵の話を思い出す。

「石井さんは、ヨーキーの生い立ちを知っていますか?」

さらに、田原が続けた。

「……生い立ちですか?」

「もともと、ヨーキーは家屋のネズミを捕まえるための狩猟犬です。だから、とても賢くて勇敢なんですよ」

右手の指で膝を2、3度掻きながら、医師は答えた。スラックスの裾がわずかに上下し、くるぶし部分の靴下を顕にする。

「18世紀の貴婦人たちの愛玩犬だと思っていました……」

「それは、その後の話ですね。毛並みが美しかったので、上流階級の人気者になったんです」

照美とのやりとりに、田原は相好を崩した。

「……わたしのあの子は……ゴーディはすごく好奇心が強くて……あの時もバッグから飛び出そうと」

開け放たれた窓のそばで、カラスが短く鳴いた。

突然、照美のジーンズの左腿に雫が落ち、洗いたての繊維を群青に染めた。

田原は、机上で着信した携帯電話をつかみ、発信者を確認したうえでスイッチを切る。

5秒が10秒になり、10秒が20秒に変わり、長針の周回だけが二人の空間を支配していく。

「ゴーディちゃんは、いま、石井さんのお部屋で眠っていますか?」

照美は潤んだ瞳で頷いた。

あの子が永遠の眠りに就くなんて思いもしなかった。7歳の誕生日に寿命のことが頭をかすめたものの、それはずっと先の話で、まるで想像できないものだった。

即死ではなかった。

致命傷が丸2日かけて命を削っていき、最期は蚊取り線香の灰のようにポトリと潰(つい)えた。一晩添い寝した後で、バスタオルにくるみ、空にしたリンゴの木箱を棺に変えた。翌朝、引き取りに現れた業者は「合同火葬じゃなく個別火葬コースですね? 4キロ以下で間違いありませんか?」と書類をめくった。

昨日のような記憶があふれ出て、目の前がにじむ。涙の粒が両の頬から下顎に伝い落ちていく。



(6/8へ続く)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る