STORY4 ICTL(2/8)

電車は東京都を出て、神奈川県に入った。

なだらかな土手と陽光を受けた川面が窓越しに遠ざかっていく。

いくら親友の親戚と言っても、お金を払わないわけにはいかないだろう。いままで通ったクリニックの話をして、新しい薬が出たら、せめてその代金くらいは受け取ってもらわないと……照美は鈍く痛むこめかみを左の人差し指で押し、伸びた前髪を手で払う。

横浜駅を過ぎると、車内は乗客を減らし、外の景色が緑を増やしていった。

やがて、大船駅で下車し、別のホームで横須賀線を待つ。

複数の路線を持つ大きな駅だが、いかにも平日の昼下がりといった長閑(のどか)さだ。

新宿を出てから1時間。表示板どおりに入線してきた電車に乗り替え、何気なく向かいの座席を見ると、カップルが鎌倉のガイドブックを熟視していた。

おおまかな現在地を知った照美はスマートフォンの地図アプリを開く。円覚寺・鶴岡八幡宮・銭洗弁天……江坂とデートした観光名所が並んでいる。


つき合い始めて2年が過ぎた秋だった。

「30代が幸せになるよう参拝しようよ」

寺社を巡りながら、江坂はそんなことを言った。

「テルミの大台は来年だけど、いまから願っておいた方がいいぜ」

「大台」という言葉が引っかかったものの、何も聞こえないふりで恋人の手を握り、東京に戻ってから、長いセックスをした。そうすることが30代の幸せを呼ぶ近道だといったふうに。


10分ほどで逗子駅に着き、木造建築風の駅舎を歩いて東口改札へ向かう。

コンコースに貼られたポスターが昭和の匂いを感じさせ、レールの先に拡がる風景はどこか故郷と通じるものがあった。

都会に比べ、空気も澄んでいる気がする。

そして、偏頭痛が治まり、手土産も軽くなった気がした矢先、自動改札に行く手を塞がれた。チャージが足りないだけなのに、過剰反応した意識が心拍を速めていく。

発作に怯えながら駅前に出ると、バス待ちの行列が目に入り、迷うことなくタクシーを探した。地図を運転手に渡し、なるべく楽な姿勢を取る。

心臓が飛び出しそうに胸を叩き、額に汗がにじんだが、目を閉じ、背もたれに上半身を預けると、ベテラン運転手の柔らかなアクセル使いが体の反乱を次第に鎮めていった。

外光を恐る恐る入れた瞳に、駅付近とは一変した景色が映り、[新逗子駅入口]と表示された交差点が見える。

タクシーは国道に入って、短い橋を過ぎたところで右に曲がった。

「窓を開けましょうか?」

ルームミラーで様子を伺う運転手に、照美は「大丈夫です」と気丈に答え、座席に置いた紙袋を脇に寄せた。

川の流れに進路を取った車が、フロントガラスに陽射しを受けつつ、速くもなく遅くもないスピードで走り続けていく。

ファミリーレストランの看板づたいに見えた海は、すぐさま、その海岸線を住宅尾根の連なりに隠した。

「……海水浴場があるんですか?」

赤信号のタイミングで、体の回復を試すように照美が尋ねた。

「ええ、少し先は葉山のビーチですよ。この辺の道路も夏はかなり混みますねぇ」

それから、運転手は年長者の落ち着いた口調で「5月のいまが、いちばんいい季節なんですよ」と続けた。



供養壇の引き戸を開け、照美は静かに両手を合わせた。

ティーポッドほどの大きさの骨壺は、表面の装飾が陶器の冷たさを隠し、上壇には写真や線香立てといった仏具が並んでいる。


院長の田原は「存分に思い出してあげてください」と言った。

「石井さんは、その子をたくさんの時間をかけて想い続けるべきです」

逗子での診察は肩透かしをくらうほどシンプルなもので、それがまだ今日のことなのに、なぜかずっと昔の出来事に思える。むしろ、車窓から見えた海の方が印象深く、遠くまで出かけた割にあっけないものだった。

椅子に座り、田原がくれた生成色(きなりいろ)のプリントを見つめる。


タバコ、OK。ゴーディちゃん、OK。よく眠り、規則正しい生活を送ること。次回、5月18日。


診察後に出力されたそれは、[TAWARA CLINIC]というフッターが、単なるメモ書きでないことを証明している。

「たはら」ではなく「たわら」。親友に似ていない顔立ち。デスク上の家族写真――アイボリーを基調にした診療室でいくつかの発見こそあったが、それらは[田原クリニック]の断片的なピースでしかなく、[診療]というパズルの完成図はまるで想像がつかなかった。

最初に食生活と飲酒と喫煙の有無を聞かれ、「タバコを吸い始めました」と答えると、田原は「かまいませんよ」と頬を緩めた。

「喫煙はたしかに体に悪いですが、 吸いたいのであれば、いまは止めることはありません。大丈夫です」

医師は、その後も「大丈夫」を繰り返し、照美が困惑した表情を浮かべるたびに親しげに頷いてみせた。

浅黒い肌と二重瞼の目はマリンスポーツのインストラクターみたいで、力ある眼差しの中にも温かさがあった。

事故についての質問はなく、東京のクリニックとはアプローチの仕方がまるで違う。

良く言えば、ゆとりがあり、悪く言えば、リアリティがなく、午後のまったりした光線がリノリウムの床に陽だまりを作っていた。

そうして、30分ほどで「来週の同じ時間に来れますか?」と田原は問い、休診日の来訪を気にかけた照美に「どうせ、ボクはヒマだから」と笑った。


タバコ、OK。ゴーディちゃん、OK――照美が服用中のトランキライザーを伝えると、医師は子供っぽく口をすぼめ、「薬は必要ないけど、気になるようだったら、いまあるものを飲み続けて結構です」と答えた。

ひとり暮らしの空間で、照美は卓上カレンダーに手を延ばし、1週間後に○をつける。

それから、スマートフォンの受信ボックスから幸恵を選び、返信モードにする。

何て報告しようか……。

液晶画面に「おかげさまで」と書いてみたが、言葉が続かず、デリートした。

と、その時、受信ランプが光り、メールが届いた。



(3/8へ続く)

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