STORY4 ICTL(1/8)
1
わたしのせいだ。
GODIE。あの子の名前のゴーディ。
私鉄電車は地下に潜って、新宿駅の手前で止まった。
三人掛けのシートで、石井照美は目をつむる。
DIE(死)なんて文字を入れたのがいけなかった。
電車をいますぐ降りて、西口ロータリーの喫煙所に行きたい。
「照美と俺のイニシャルをつけようよ。石井のIと江坂のEをゴッドにくっつけて、ゴーディでどう?」
ほんの思いつきで、江坂泰司はペット保険の封筒の裏にアルファベットを連ねた。
GODIE
「ひとり暮らしが淋しいんなら、犬でも飼えば?」
最初にそう提案したのは江坂だった。
「俺も極力ここに来て、一緒に育てるよ」
仕事をしながらペットを飼うことに自信はなかったものの、恋人の江坂がいて、留守番の出来る室内犬なら…と照美は思った。それに、子犬が[ふたりのゴールイン]のキューピッドになるかもしれない。
それから、8年。
何事もなく動き出した各駅停車で、照美は顔を歪めた。胸骨と心臓を太い紐で縛りつけられるような痛み。いつもの症状。
胸を抑えながら、新宿駅でいち早く電車を降り、とりあえず、喫煙所でタバコに火を点けると、体の異変が徐々に落ち着いてきた。
結局、「俺も極力ここに来る」と言った名付け親は姿を消し、血統書に記されたゴーディの誕生日にさえ音沙汰がなかった。あったのは、保険会社からのメールだけ。
「ゴーディちゃんのお誕生日おめでとうございます」
メッセージの後に、ヨークシャテリアのかかりやすい病気とさまざまな保険コースが、通販ショップのメルマガみたいに長々と紹介されていた。
DIEの付く名前なんか反対すれば良かった。いや、そもそも、「犬を飼えば?」なんて提案に乗らなければ良かった。そう考えた途端、胸の内側がぎゅっとつねられ、メンソールを慌てて吸い込む。
遅かれ早かれ、わたしはあの子とどこかで巡り会い、一緒に暮らす運命だったのだ。
むしろ出会わなければ良かったのは江坂泰司という男で、30歳までの3年間を返してほしい…。
照美は駅の構内からSuicaで改札を抜けて、JRの1番線ホームに立った。
カレンダーはまだ5月の半ばなのに、夏の気配を感じさせる陽射しが線路沿いの看板広告を強く照らしている。
右肘に提げた紙袋とハンドバッグを左手に替え、「もっと簡単な手土産にすれば良かった」と、今度は別の後悔に囚われた。せめて、家族の人数を聞いておくべきだった。子供がいるのかどうか……いずれにしても、こんな大きな缶入り煎餅ではなく、軽装な洋菓子の方が良かったかも。
湘南新宿ラインの中で、彼女は深いため息をつく。
でも、もう、何もかもが取り返しのつかないこと。
離れた場所にいる乳児が速度に併せて泣き声を上げ、照美はそのベビーカーを一瞥した後で、バッグから2つ折りの紙を出した。
親友の西幸恵がファックスしてきたものだ。
サインペンで[田原クリニック・田原芳樹(叔父)]とあり、地図が書かれている。縦横に走る道路と目的地がフリーハンドで示され、最寄り駅からのだいたいの距離、それに叔父の携帯電話の番号まで知らせている。場所はスマートフォンで調べれば事足りるのに、親友はどこまでもケアしてくれた。
きっかけは1泊2日の旅行計画――もし、幸恵から誘われなければ、あの朝、あんな事故に巻き込まれることはなかった。もし、ゴーディを別のペットホテルに預ければ、あのバス停に行くことはなかった。
もし…もし…もし…。
仮定形の螺旋階段を悔恨の思いが駆け上がっていく。
快速電車は、山手線のふたつの駅を黙殺して渋谷駅に滑り込んだ。
席に座る者はほとんど誰も降車せず、乗車してくる者の方が明らかに多い。
余裕のあった車内が窮屈になり、ベビーカーが照美の視界から消える。
1週前の夜、「余計なお世話かもしれないけど…」と、幸恵が電話で切り出した。
「私の叔父が心療内科を開業してるの。ちょっと遠い場所なんだけど」
伊勢志摩へのお泊りプランを持ち込んだ時とまるで別人の声に、「ゴーディの命を奪った責任は私にもある」という思いが張り付いていた。
たしかに、[4月9日]を選んだのは幸恵だが、それは螺旋階段の一段でしかなく、差し出された手を掴むことが被害者である自分の役割だと照美は思った。だから、その心療内科がどこにあるのかも、親戚のことも詳しく聞かないまま、「紹介して」と答えた。
そして、電話を切ってから1時間もしないうちに再びコールがあり、休診日に時間を設けてもらったこと、クリニックが神奈川県の逗子にあること、「私も同行できる」と幸恵が伝えてきた。
少し考えた後で、照美は感謝の言葉とひとりで行く意思を丁重に告げた。
「大丈夫? ごめんね…旅行に誘ったのは私なのに。叔父が『料金はいらない』って」
親友の言葉に胸がつまった。
(2/8へ続く)
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