STORY3 オラクル(4/8)
◆
無数の雨粒が窓ガラスを伝い落ちる部屋で、オレは今日もひとりでオラクルカードを引いた。
五匹のペンギンが氷の上に立って、大きな鮫の泳ぐ海を見ている。
メッセージは「Stop」。番号は[34]。
解説書を開く。
「あなたの中の恐怖感に過剰に反応してはいけません。少しの間、何もせずにいてください。扉を無理やり開かずに一歩下がりましょう。やがて、扉はあなたの内側に向けて開かれるはずです」
漠然とした天の言葉。特に最後の一文は、ヤマガタ鼎の説明が欲しい。
まぁとにかく、遅番シフトのオレは、[託宣]に従い、夕方までは何もしないでいようと決める。
冷蔵庫のアイスコーヒーを牛乳で割り、グラスをデスクの隅に置く。それから、椅子に座り、外を眺めた。
風で飛ばされてきたのか、黄緑色の紡錘形の葉がベランダに落ちていて、もうしばらく前からそこにあるみたいに、地面にべったりついている。次の風で別の場所に移るつもりだったのに、折からの雨で行き場を阻まれたかんじだった。
昨日の握手会は、オレを予想外に疲れさせた。
イベントという、その [非日常]がもたらしたのは、三か月前の生々しい記憶で、カツとの会話が二度とないと思うと得体の知れない欠落感に襲われた。
そう……進学に迷う弟の背中を押したのは、たしかに兄のオレだった。
「急いで社会に出て、組織ん中で働き始めたってしょうがねえよ」
電話で、カツにそう言った。
自分の価値観を押しつける気持ちが半分、努力家の弟をリスペクトする気持ちが半分。
明るい口調に戻ったカツは、「近いうちに居酒屋で飲まない? タカと久しぶりにいろいろ話したいんだけどな」と続けた。
なんだか気恥ずかしくて、オレは曖昧な返事で通話を切り、コンビニのバイトで生計を立てるのが兄として正しい姿か?と自問した。
飲み屋でもどこでも、カツともっと話しておくべきだった。そばにいるべきだった。
[篠崎隆文]という人間は自己を正当化する臆病者で、優秀な弟を誇りに思う反面、必要以上の成功を修めてほしくないと、心の隅で思っていた。愛情と嫉妬をない交ぜにした性根(しょうね)。子供の頃からそうだった。ヒーローを応援しながら強敵の登場を期待するような歪んだ心理。
雨足が急に強まり、向かい側のマンションが白く煙る。
社会の中でも、家族の中でも主要なキャストになれず、むしろ、あの事故で命を失うべきは、このオレ……兄の[篠崎隆文]だったのではないか?
牛乳の量が少ないせいか、飲み物がいつも以上に苦い。
あなたの中の恐怖感に過剰に反応してはいけません――行き詰まったオレは、サーカスのチケットに記された公演日時を再確認して、親父の携帯にメールした。
そして、その晩、ちょうどバイトの休憩時間に親父から電話が来た。
「昼間にメールもらって、母さんにも知らせていたけど、返事が遅くなって申し訳ない」と切り出し、残業して、たったいま帰宅したと加えた。
几帳面で、何事にも真面目に向き合う親父らしい物言いだ。
四十年も同じ会社に奉公し、まもなくその役目を全うする親父は、けして器用な人間じゃなく、むしろ不器用な類(たぐい)で、フリーターのオレが言うのもナンだが、サラリーマン社会で成功したとは言い難い。それでも、毎日の仕事をこなし、家族のために満員電車に揺られてきたのだ。そうした者への見返りとして、あの事故はあまりにも冷酷で、残忍で、動機も目的もないものだった。
スマホ越しに肉親の声を聞き、オレは改めて思う。
息子を過干渉しなかったのは、平凡なサラリーマン人生を強要したくない気持ちもあったのだろう。だからこそ、いまのオレは、親父の考えること、望むことを少しでも重んじたい……サーカスの反応がいまいちなら、無理強いせず、チケットを銀次に返そう。ヤマガタと銀次とオレの三人で行けばいい。
ところが、親父は誘いを喜び、「母さんも楽しみにしてるよ」と応えた。
正直、オレは驚いた。にぎやかな場所に出るのを厭わなくなった両親。革命的な変化だった。
コンビニの薄暗い休憩室で、壁に掛かった丸時計を見つめながら、時間が傷を癒すのではなく、傷を癒すために人が時間を利用するんだと気づく。
ひととおりのやりとりを終えると、親父は「私は会社を半休するけど、タカはサーカスに行く前に用事があるか?」と訊いてきた。
1週間後のその日はシフトを入れてなかったので、「ヒマだよ」と答える。
「じゃあ、ちょっと、取材につき合ってくれないか?」
親父は声を低め、こちらの反応を伺った。
「取材?」
「ああ、取材を受けなきゃならないんだよ……」
意味が分からず、オレは先を待つ。
「克理の事故について、母さんと私に話を聞きたいって人がいてなぁ……」
寝耳に水だった。
いきさつを尋ねると、週刊誌の記者から電話があり、事故についての記事をまとめたいのだという。
「それって、プライバシーの侵害じゃないか?」
語気を荒げて、オレはストレートに言った。
ゴシップをウリにした雑誌じゃなく、誰もが知る一流週刊誌だが、取材の意図が分からなかった。いまさら、遺族に何をインタビューすると言うのだ。だいたい、どこで番号を調べたのか、いきなり電話してくるなんて失礼じゃないか。
「断るべきだよ、そんなの」
苛立ちの矛先を通話口に向けて、オレははっきり主張する。
「……私も最初は断ったけど、いつでもいい、五分だけでいいって言うんだ……それに」
感情を抑えたかんじで、親父はゆっくり喋り、そこでいったん息を入れた。
「……それに?」
「『世の中のために、克理さんの事故を風化させないように記事を書きます。編集長がやっと許してくれました』って、声を震わせたんだ」
(5/8へ続く)
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