STORY2 じやすたりたでい(8/8)

入口の警備室で、虎太郎は名前の記入を求められ、常備された鉛筆を走らせる。

天井には防犯カメラが設置され、地下フロアに繋がる階段だけが順路になっていた。エレベーターはなく、誰かを待ち受けるためのスペースもない。

しかも、階段の幅は、すれ違う者のどちらかが体を傾ける狭さで、建物の構造自体が来訪者を嫌っている感じだった。

蛍光灯が暗がりを照らしているものの、踊り場までの距離の近さが段差を高くし、虎太郎は足元を確かめながら、一段ずつ慎重に下りた。


楽屋の俳優を訪ねるなんて、もちろん初めての行為だ。ましてや、初対面なので怪しい目で見られるだろう。留学生活で身につけた積極行動は、今回は軽はずみだったかもしれない。

まず、声をどうかけよう…。

「お母様にお世話になりました。ブログをいつも読んでいます」

その後に、何を話そう…。

虎太郎は一度足を止めたが、背後から人影が迫り、「どうにでもなれ」の気持ちで前へ進んだ。

そうして、ふたつ目の踊り場の壁面に[楽屋はこの下]の貼り紙があり、階段を下りきると、向日葵・胡蝶蘭・アンスリウムの鉢植えが並ぶフロアに行き着いた。

自動販売機の前にスタッフらしき若い男が立っている。

「どうぞ、楽屋はこの奥です」と声をかけられ、虎太郎は不審に思われないよう、もっともらしくお辞儀して足を速めた。


行き止まりの角を曲がったところで、野戦病院みたいな情景が目の前に拡がった。

上半身裸の役者がハンドタオルで顔を吹きながら面会者に接し、業界人ふうの中年男が携帯電話を耳にあてている。

通路の両側に出演者それぞれの楽屋があり、陣中見舞いに訪れた関係者と落ち合っていた。

左右を交互に確認して、虎太郎はさらに奥へと向かう。

女性グループの間をすり抜け、視線を上げると、そこに西川晃一郎の姿があった。

たった2、3メートルの距離。

ランニングシャツと短パンで、長い髪を手ぬぐいで覆った姿は、ブログの写真やステージよりも強いオーラを放っていた。

斜め45度に向き合う角度だが、間に年輩の男女がいて、西川晃一郎に話しかけている。洋服のテイストや親しげな仕草から、その来訪者が夫婦だと分かった。

手土産の紙袋を胸の前で抱え、虎太郎は激しい動悸とともに面会の順番を待つ。

盗み聞きするつもりはないが、否応なしに3人の会話が耳に入ってきた。

夫婦は「よかった」「すごかった」という言葉を繰り返し、周囲の者が気にならない様子で会話を続けている。

肩身をすぼめて、虎太郎が自分のスニーカーに意識を追いやった時、甲高い声が響いた。

「メグミさんにも見せたかったわ!」

感情のたがを外した妻がしゃくり上げ、細い体を震わしている。隣り合う夫が彼女の腰に腕を回し、傍(かたわら)に引き寄せた。

西川晃一郎の目が潤んでいる。

「父さんも…母さんも…わざわざ来てくれてありがとう」

囁く程度の声だったが、虎太郎にははっきり聞こえた。



カードキーを差し込むと、得体の知れない重たい塊が胸の奥に潜り込んできた。

一日も終わりつつあるのに、外気は夏の到来を思わせる暑さで、駅前の交差点ではアイスクリームを舐める子供とすれ違った。

受取人を失くした菓子折りをシングルベッドの上に置いて、虎太郎は冷房のスイッチを入れる。

年季の入ったクーラーは稼働まで時間がかかり、眠りから物憂げに覚める音を立てた。

椅子に腰かけたまま、動けない。

日本への帰国、西川メグミを偲ぶ会、墓参り、演劇観賞…テレビドラマなら数話分の出来事を立て続けに経験し、頭がオーバーヒートしている。

頬杖をついて、虎太郎はデスクのメモパッドを取り、キャップにホテル名のあるボールペンを握った。

まず、[TO DO]と書き、行間を空けて、[手続き@大学]と記した。

それから、手を少し止めた後で、[チェックアウト][演劇]とランダムに連ねた。

さらにしばらくの間、ペン先を紙にあてるだけだったが、やがて、自筆のサインを入れるように[Just a little day]と筆記体で書き、その文字を見つめた。

意図せず、脈絡もなく、ひとつの記憶が蘇ってくる。

高校の卒業式の朝。

うっかり寝過ごし、遅刻寸前の八つ当たりで、「学校には来るなよ!」と、継母に罵声を浴びせたこと。

大切な行事のために最高級の和服を着付けた彼女は、口を尖らせ、泣き顔を見せた。

そんな、魚の小骨みたいな過去が心の深いところを刺してきて、虎太郎は眼球を休めるように両の瞼を親指と人差し指で強く押す。

緩やかなのに、けして滞ることのない時間が過ぎていく。


目を開けると、クーラーの微風がカーテンの襞をわずかに揺らしていた。

息を大きく吸い込む。

劇場ロビーと楽屋通路の花々の香りが鼻腔に引き返し、西川晃一郎の家族が朧気な残像になって現れた。


「大切なのは、あなたが自分の人生をどう生きるか、よ」


やがて、虎太郎は再びペンを取り、[Just a little day]のそばに、一際大きく、新しい文字を綴った。

[親父と母さんに電話]




おわり

(STORY3へ続く)

■連作「キミの短い命のことなど」

STORY2「じやすたりたでい」by T.KOTAK

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