STORY2 じやすたりたでい(6/8)

やがて、ハウリングを起こしたマイクでアナウンスがあり、プロジェクターによる投影とともに電気の半分が落とされた。


[西川メグミさん、33年間ありがとう]


大きな文字のメッセージが3秒間ほどスクリーンに浮かび、デスクワークやカウンセリング中の西川メグミの写真が映し出された。

虎太郎にも聴き覚えのある旋律が流れる。G線上のアリア――迫田夫妻とボストン交響楽団のコンサートに行った時に耳にした曲だ。

[海外研修にて]とテロップされた写真は、まだ年若く、多くの来場者も見たことのない、ジーンズ姿の西川メグミが海辺で笑っている。

同じ時代の写真が何枚か続き、次に、講演中のショットが現れた。

それは、彼女がカリスマ・カウンセラーと呼ばれるようになってからのもので、静止画なのに、いまにも熱いメッセージが聴こえてきそうだ。

場内は、空気が言葉をさらったみたいに静まりかえり、全員が映像に集中している。

そして、ピンスポットが中央から外側に拡がるかたちで写真を消していき、再び大きな文字が出た。


[留学カウンセリングの数=約25000回 送り出した留学生=1841人]


まばらに生まれた拍手が一気に集い、すぐさま、大雨が屋根を叩く音になる。

それから、少しの間を置き、直近の西川メグミが画面いっぱいに登場した。

太陽のような、向日葵のような、満面の笑顔。

誰かが鼻をすすり、小さな嗚咽が漏れる。

照明が戻り、代表の男が頭を下げると、改めて、満場の喝采が会場を包んだ。

その拍子に、虎太郎は鳩尾(みぞおち)の辺りを強く圧された感覚で、しゃっくりが出た。両肩を動かすほどに、横隔膜が激しい痙攣を始める。


「それでは、西川と長くお付き合いいただいた方に、ご挨拶をお願いします」

スタッフの声を背に、虎太郎はなるべく人目につかないように部屋を出て、化粧室の鏡の前に立った。

しゃっくりが止まらない。

アルコールのせいもあって、動悸がひどく速まっている。

西川メグミは、本当にいなくなってしまった。

足が震えた。

ハンドペーパーで鼻をかむと、目尻が濡れた。あふれ出る涙を拭った。

帰ろう。外に出よう。

深呼吸してエレベーターのボタンを押すと、2機のうちの左側が、あたかも利用者を待ち構えていた感じで扉を開いた。

すると、サマーセーターを着た男が中から歩み出て、出合い頭の虎太郎に会釈を残して会場に向かった。

[閉]のボタンで、エレベーターが穏やかに下降し始める。

あっ。

虎太郎は、胸の内で声をあげた。

西川晃一郎だった。


間違いない。西川メグミの息子だった。

会場に戻るつもりなら戻れたが、そのままビルを出て、歩き続けた。アテンドしてく

れたスタッフにも秦陽子にも、黙って出てきたことが失礼だと分かっていながら足を速める。

写真でもなく、誰かの語るエピソードでもなく、西川メグミにいますぐ会いたい。

ポケットで4つ折りにしていた地図を開き、携帯電話で移動経路を調べて、駅の階段を上がった。


帰宅ラッシュを終えた電車は人影もまばらで、どこでも座ることができたが、虎太郎は立ったままの姿勢で乗降ドアにもたれかかった。

薄闇の中、ガラスにおぼろげに映る自分を見て、本当の母親を知らないことは、不幸中の幸いかもしれないと思う。

幼い頃に死んだ実母――記憶が少ない分だけ、感情の振幅がない。墓前で合掌し、祈りの言葉を繰り返しても、真実味がなかった。

どんな女性で、小学校に上がるまでの自分をどう育てたのか…しかし、古い写真を見ても、祖母や父親に話を聞いても、実像はぼやけたままだった。

もし、母親が元気だったら、きっと、留学をしていなかっただろう。カリスマ・カウンセラーに出会うことなく、呉服問屋の長男として普通に暮らしていただろう。

最初のカウンセリングの時に、母親がいない喪失感を西川メグミに告げると、彼女は長く黙った後、「それでも想い続けることが大事だと思うわ。お腹を痛めて、あなたを産んだ人なんだから」と言い、それは私の仕事とは無関係といったふうに留学の素晴らしさを語り始めた。


快速電車に揺られながら、西川晃一郎のブログをチェックする。更新はない。

自分と同年齢の彼が母親と離れて過ごした時間を考えてみたものの、想像が及ばず、それでもなぜか、お互いが生き別れた兄弟みたいに思えた。

車窓が景色を変えていく。

まもなく、街の喧騒を遠ざけた駅に着き、虎太郎は西川メグミの眠る場所に向かった。



(7/8へ続く)

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