STORY2 じやすたりたでい(5/8)

男は丁重に頭を下げ、「バッジを付けていただけますか?」と、プラスチックのネームプレートを差し出した。留学サービス機関があらかじめ用意した[身分証明]には、ゲストのフルネームに加え、留学期間と在留した都市名が明示されている。

虎太郎は高校時代と今回の留学の両方が正確に記されていることに感心しつつ、とまどった。

ネームプレートはクリップ止めのタイプで、ポロシャツに胸ポケットがないため、襟元のボタン部分に傾けて止めるしかない。

スタッフの男はバツが悪そうに見守ったが、自分のミッションを終えた笑みを浮かべてドアノブに手をかける。

と、その時、虎太郎は大切なことを思い出した。

「あの…西川さんのお墓の場所をご存じでしたら、教えてもらえませんか?」

男は多少驚いた顔で振り返り、後で地図を渡すことを約束して、ゲストを室内へ導いた。


3つの小部屋にセパレートされている[セミナールーム]は、パーテーションが取り払われ、ミニシアターほどの広さに変わっていた。

中央に寄せ集められたテーブルには、宅配ピザや寿司やスナック菓子といった食べ物があり、缶ビールと烏龍茶のペットボトルの横に、タワー状に重ねた紙コップも置かれている。

部屋の西側にはブラインドを開けた窓が6つあり、別のオフィスビルの明かりが遠くに見えた。

パイプ椅子が四方の壁際に配置され、すでに何人かが座っている。


まず、虎太郎は人の量に驚いた。

ストラップつきの名札を下げた者はスタッフだろう。

それぞれがダーク系のスーツを着て、ゲストたちの合間を忙しく行き交っている。

[偲ぶ会]というくらいだから、ひっそりしたものだと思っていた。ところが、ケータリングの食べ物が少なく見えるくらい、あらゆる世代の者が空港ロビーのように空間を埋めている。


「皆さん、お仕事や学業でお忙しいなか、今日はご足労くださいまして、ありがとうございます」

虎太郎の入場からほどなくして、マイクを通した声が響いた。

ダブルのスーツを来た恰幅のいい男が上座に立ち、出入口付近のスタッフに音量調節のジェスチャーをする。

留学サービス機関の代表者だ。

虎太郎も顔と名前は知っていたが、声を聞くのは初めてだった。アラブの石油王みたいな立派なヒゲを蓄えている。

「カウンセラーの西川メグミは、私たちにとっても、皆さんにとっても、太陽のような存在でした。ですから、今夜は明るく、彼女の旅立ちを祝う会にしたいと思います」

代表者は朗々と語り、スタッフが用意した缶ビールを掲げて、野太い声で乾杯の音頭をとった。

それから歓談タイムとなり、参集者のそこかしこのおしゃべりで、会場はランチタイムの教室みたいになった。

顔見知りの年長者同士が握手などして再会を喜ぶ一方、虎太郎のような学生は、遠慮がちに会場全体を見渡したり、食べ物をつまんだりしている。


「私たちカウンセラーにとっても、西川を失くしたのはたいへんショックでした」

スタッフが虎太郎に地図をそっと手渡し、2貫の寿司とひと切れのピザを乗せた皿を向けた。

「…僕は帰国したばかりで、まだ信じられません」

礼を言った後で、虎太郎は率直な気持ちを伝え、缶ビールに口づけた。苦みが舌先に広がり、飲みづらい薬をむりやり含む気がする。

目の前をノースリーブのワンピースを着たゲストが通り過ぎると、スタッフが「ハタさん」と呼び止めた。そして、その女性の紙コップを一時的に預かり、ハンドバッグから名刺入れを取り出すのをアシストして、首尾よく虎太郎を紹介した。

よく知られた雑誌のロゴが名刺に刷られ、[秦陽子]という名前の上に[記者]と添えられている。

虎太郎は、在籍中の国内の大学より留学校を伝えた方がこの場にふさわしいのではと思いながら、とりあえず、日本の大学と学年を告げた。

ヘアスタイルをショートにした秦は、耳に小粒なパールのイヤリングを付け、おとなしめで古風な日本人顔だが、小柄な体は記者職の軽いフットワークを思わせた。

「古賀さんは、2回も留学しているんですね」

ネームプレートを見て、秦は滑舌の良い口調で言った。

「私なんか、大学3年の夏に就職活動のために短期留学しただけですよ」と自嘲気味に続け、留学先で盗難に遭った時に西川メグミが親身になって対応してくれたことを告白した。

スタッフの男はいつのまにか傍らを離れ、別のOBと談笑している。


「古賀さんは、どんな仕事に就きたいんですか?」

秦の問いかけに、虎太郎は口ごもり、「まだあまり考えていません」と答えた。

場内は哀しみの色に染まることなく、若いスタッフが追加の缶ビールをテーブルに補充していく。

「…西川さんの事故の現場に、秦さんは行かれたんですか?」

話題を変えるつもりで、今度は虎太郎が尋ねた。

「ええ、行きました。半分仕事、半分プライベートで…本当に、ありえない事故でした」

秦は語るのもつらいといったふうに、目線をリノリウムの床に落としてから、強い眼差しで顔を上げた。

「古賀さん、私は事故の真相を追いかけます。西川さんだけじゃなく、たくさんの人が犠牲になった事件を、絶対に風化させたくないんです」

決意に満ちた言葉に虎太郎はおののき、彼女の瞳と声色に強い意思とたしかな覚悟を見た。

そうして、いまここにいる留学経験者のほとんどが、確固たる人生を歩んでいることに気づく。


「トラちゃんが社会に出る前に海外でしっかり勉強して、自分の生きる道を見つけるって、私に約束してちょうだい」


虎太郎はうつむき、下唇を噛んだ。



(6/8へ続く)

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