STORY2 じやすたりたでい(4/8)

お昼時を迎えた店内が、人いきれで密度を濃くし、トレーを持ったサラリーマンが空席を待っている。

虎太郎はダイエットコーラを半分残し、丸めた紙ナプキンを食べ終えたビッグマックの容器に入れた。

そして、一息つき、ジーンズの後ろポケットから携帯電話を取り出す。

籍を置く日本の大学のウェブサイトは、お知らせ欄で夜間大学院の公開授業を告知し、学校名を象(かたど)ったロゴの下で、キャンパスの写真を映し出している。

しかし、虎太郎には、それが自分とはまるで関係ない世界に思えてしまう。

2年以上も通ったのに実感がない。

授業にも真面目に出席していたし、サークル活動も人並みに満喫していた。友人だって少なくない。それなのに、ボストンの記憶が鮮やかすぎて、いつしか、日本での学生生活がパスワードのかかったファイルみたいになっていた。


携帯をトップ画面に戻し、[フォトアルバム]のアイコンをタップする。

いちばん新しい写真は、雨に煙る滑走路。尾翼に赤い鶴を宿した機影があり、遠方の緑地帯が空と地上の境界をぼんやり作っていた。

メニューから[スライドショー]を選び、テーブルに置く。

キャンパスに佇む校舎、Vサインするルームメイト、クリスマスの大聖堂、フェアウェルパーティーのビンゴ大会…。

2度の留学での数え切れないほどの出来事。

映像のスピードに感傷が追いつかず、マニュアルに切り替える。

振り返れば、今回の留学以上に、ハイスクール時代は[じやすたりたでい]がおまじないの言葉になっていた。

人種差別の目やクラスメイトとの軋轢、それに落第点のレポート…見るもの聞くもの感じるもののすべてがカルチャーショックだった。

そんな時にいつも慰めてくれた[じやすたりたでい]。


「虎太郎くん、留学は楽しい毎日じゃないわよ。むしろ、たいへんなことばかり。でも、お金では買えない経験をあなたは得ることができるの」


たいへんなことばかり――最初のカウンセリングで西川メグミの言ったことは実家暮らしにも通じるところがあった。

呉服業界のルールとマナー、織物の扱いや染色方法…大学の講義と何の接点もない知識を頭に詰め込むのがつらくてしかたない。


店内の騒がしい女子高生たちを一瞥してから、虎太郎は画面をスライドし続け、1枚の写真が現れたところで手を止めた。

留学中に参加したテレビドラマのロケ現場。教室の真ん中で、教師役のベテラン俳優がほくそ笑むショットだ。

きっかけは、迫田夫妻との会話だった。

ディナーの席でカリフォルニアワインにほろ酔いした虎太郎が「演劇に興味がある」と漏らすと、夫の昌司は不意を突かれた表情で「ドラマのエキストラに参加するつもりはあるか?」と尋ねた。

その、わずか一週間後。

虎太郎の童顔と身長の低さがキャスティングディレクターの目に留まり、風変わりな日本人生徒役でカメラの前に立った。おまけに一言二言のセリフも与えられ、演技指導まで受けたのだった。

夢のような時間。

1日がかりの撮影を終え、迫田は助手席に虎太郎を乗せて、「エキストラなんかじゃなくて脇役だったな。びっくりな展開だよ」と豪快に笑いながらアクセルを踏んだ。

夕陽に染まるうろこ雲がチャールズ川にたなびき、橋の上の給水塔はロボットの頭みたいな輪郭線を宙に描いていた。

神経をすっかり昂ぶらせて、虎太郎は、人工物と自然が一体化した景色に目を細めた。



[西川メグミを偲ぶ会]は、留学サービス機関の[セミナールーム]で行われる段取りだった。

虎太郎は、カウンセリング・ブースに隣接したその部屋をオリエンテーションで訪れていたし、オフィスには何度も出向いていたので、見慣れたビル、行き慣れた場所だったが、開始時間から遅れてエレベーターに乗ると、心臓が動きを速めた。

ポロシャツとジーンズ…そもそも、こんな格好でいいのか?

せめて、ジャケットくらいは着てくるべきだったと後悔したものの、冬物の服はイースターの頃に実家に送っていたことを思い出す。

エレベーターを降りると、[西川メグミを偲ぶ会 於セミナールーム]という案内が壁に貼られていた。

留学カウンセラーの営業時間はすでに終了し、接客スペースには誰もいない。


突然、会場の入り口で「古賀さん!」と呼びかけられた。

「お電話では失礼しました。今日はよくいらっしゃいました」

うっすらと見覚えのある顔。

西川とのカウンセリング中に、彼女に伝言を届けたり、資料を持ってきた男だった。

電話の印象と違い、ボディビルダーのように胸幅が厚く、半袖シャツの袖口に上腕筋が張り付いている。



(5/8へ続く)

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