STORY2 じやすたりたでい(2/8)
図書館を出て、虎太郎はホテルの部屋に戻る。
1泊7000円のビジネスホテル。宿泊客の評価をネットで調べ、エアラインのチケットと一緒に予約した場所だ。
米国での1年間の留学は、長いようで短かった。
西川メグミに選んでもらったマサチューセッツ州の私立大学は、2万人の学生の10%以上が他国の出身者らしく、虎太郎は日本にない空気を存分に吸うことができた。
さまざまな価値観との出会いもあり、緑にあふれたキャンパスは、日常会話レベルの英語を体得している彼には程よい環境だった。
ただ、在籍中の大学を1年休学する[スタディ・イヤー・アブロード]という留学方法は、現地の学生と同じ授業を聴講するもので、留学生向けの中級英語を学びながら、その講義を受けるのは想像以上にきつかった。
虎太郎が電話で弱音を吐くと、西川メグミは「めったにできない経験だから、お金を出してくれたご両親に感謝しなさい」と、励ましにも慰めにも聞こえる言葉を発した。
たしかに、自身の経済力で留学したわけではない。親の存在あっての渡航だ。でも、はたして[古賀虎太郎]が幸せな境遇か?と問われれば、素直に頷けない自分がいる。
第一に、名前の[虎太郎]。
呉服問屋の長男という理由で、代々受け継がれた[虎]の文字に縛られ、日本の友人たちには「トラ」、西川メグミには「トラちゃん」、ルームメイトの韓国人留学生には「タイガー」と呼ばれた。草食顔の自分に不似合いなラベルが一生つきまとい、誰かに呼ばれるたびに気持ちが萎えてしまう。
清掃の行き届いたシングルルームで、虎太郎はスーツケースからノートパソコンを取り出して、ネット回線を繋げた。
チェックインして図書館にすぐ出かけたため、マシンの起動と入れ違いに、ようやく一息つく。
パソコンの壁紙は4年前の写真。ハイスクールの仲間たちに囲まれた17歳の自分で、JFK空港で別れ際に撮ったものだ。
高校と大学の両方で海外留学するのは贅沢な話にちがいない。しかし、呉服問屋の跡取りといった「規定路線」が納得いかなかった。
レールから外れてみたい。途中下車したい。
そうして、「海外の高校に行ってみたい」という一人息子の申し出を、父親の虎蔵は1年限定の条件で承諾したが、学校認定の「交換留学」ができず、1学年を留年する「私費留学」となった。
「日本に戻ってから、別の学年の子と知り合えるじゃない。とにかく、高校時代に海外の学校に行くのはかけがえのないことよ」
初対面の西川メグミは、まるで親戚みたいな眼差しでそう言い、「高校生のカウンセリングは親も一緒に来るのが普通だけど、新幹線でひとりで来るなんて素晴らしいわ」と両手を広げた。
当時の虎太郎は、彼女のそんな芝居じみた仕草を笑い飛ばすほどすれてなく、学校案内の冊子に心踊らせた。
そうして、[留学カウンセラー]の西川メグミと出会い、「母親って、こんな感じなのかな?」と思いながら、渡米する決意を父親に告げたのだった。
いまとなっては、何もかもが懐かしい。
初めての海外。一人旅。不安だったトランジット。ホスト・ファミリーとのエクスカーション。
それからまだ4年しか経っていないのに、2度の留学を終えたいまは、実家が遥か遠い存在に思える。
夕刻に向かう陽射しとともに、バイクのエンジン音が防音ガラスをすり抜けてきた。
マウスポインタをアイコンに併せてクリックすると、2通の未開封メールがある。
先に届いていたのは、実家からで、もうひとつはボストンの迫田夫妻からだった。
いったんデスクを離れ、エアコンのリモコンを手にした虎太郎は、[冷房]の液晶文字で日本に帰ってきたことを実感する。
若葉色のカーテンを閉め、室温を調整してから、パソコンにまた向き合う。
迫田夫妻は、ボストン在住のロケーション・コーディネーターで、夫の迫田昌司が虎太郎の父親と幼なじみだった。
1学年留年して高校を卒業した後、大学までも1年休学すると切り出した息子に、虎蔵は鬼の形相を向けたが、「呉服を世界に広めるため、アメリカでビジネスを学ぶ必要がある」と説かれ、しぶしぶ了承した。それは、西川メグミが考えた「留学理由」で、虎太郎の本心は実家を出たいだけだった。
「跡取り息子」という立場とともに、「太郎さん」とよそよそしく呼びかける継母からも距離を置きたかった。
「アラフォーならもっと色気があっていいのに、着物が似合うだけの太ったオバサン」
留学中の虎太郎がそんな陰口を迫田夫妻に言うと、妻の迫田智子は「お父さんは家族にぴったりな人を選んだはずよ」とたしなめた。そして、「私たちに『息子をよろしく』の電話をかけてくるほど、虎蔵さんはあなたのことを愛しているのよ」と続けた。
虎太郎は返信画面を開き、迫田夫妻へメールを返す。
留学中のお礼と無事に帰国した報告に加え、すでに日本にいること、在米中にドラマ出演したことは父親には内緒にしてほしいと書いた。
キオスクで買ったフリスクを口に放り、携帯電話に視線を置くと、待受画面のデジタル数字は、まだ東海岸の時間を刻んでいる。
実家からのメールは継母からで、「太郎さんへ」という件名の文面は、「日本に戻ったらお父さんの携帯に電話してください」というものだった。
(3/8へ続く)
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