STORY2 じやすたりたでい(1/8)
1
名前があった。
四名の一般人。フルネームと年齢だけで、住所や職業は書かれていない。
古賀虎太郎(こがとらたろう)は夕刊の束を朝刊に変えて、記事を追いかける。
一か月分を綴じ紐で束ねた新聞は、テーブルの上で開くと隣席のスペースを奪ってしまうほどだが、幸い、平日午後の閲覧スペースは入館者が少なく、紙面を拡げるにはうってつけの時間だった。
急ぐことはないのに、虎太郎は、ストップウォッチを持つ者に監視されるように手を動かし続けている。紙のめくれる音に併せて、活字が左から右へめまぐるしく動いていく。
次の記事はすぐにみつかった。翌日の朝刊だ。
[早朝の惨事、尊い命がなぜ?]
見出しに事故現場を空撮した写真が加わり、被害者の顔写真もある。
いた。
高橋メグミ……間違いない。
写真は昔のものらしく、ヘアスタイルが古めかしい。しかし、直径一センチほどのモノクロ画像でも彼女の特徴的な目鼻立ちがしっかり表れていた。
呼び慣れた苗字ではないため、夕刊ではピンと来なかった事件が、写真の存在でにわかにリアルになる。
住所・東京都大田区。年齢・五十五歳――留学カウンセラーの西川メグミ、その人だった。
[高橋]は旧姓で、[西川]が結婚後のラストネームだ。離婚したので、戸籍上は[高橋メグミ]に戻っていたものの、仕事で西川姓を使い続けていたので、留学生や業界関係者にとって、報道上の名前には違和感があった。顔写真が本人を証明しても、人違いなのでは?と疑ってしまう。
虎太郎は、時系列に沿って読み続けたが、日を追うごとに記事は少なくなり、一週間もしないうちに事件はまるまる姿を消した。
JRの駅から歩いて十五分ほどの区立図書館は、人の出入りが少なく、二人の司書が時間を持て余すように貸し出しカウンターでパソコンを操作している。
ガラス窓からは、春と言うには強すぎ、夏と呼ぶには頼りない陽射しが木々の緑を縫って射し込んでいた。
虎太郎の右手側のパソコンコーナーでは、インターネットでニュース検索することも出来る。けれどもそれは、彼がボストンにいた時に行っていたし、わざわざ図書館に来なくても、愛用のノートパソコンで事足りることだった。
こうして、新聞というアナログメディアに向き合ったのは、紙の手触りとインクの文字が、「現実」を受け入れる最終手段に思えたからだ。
最初の知らせは、虎太郎が帰国する一か月前で、事故からすでに二週間が過ぎていた。
西川メグミが籍を置く留学サービス機関からのメールと一本の電話。
「古賀さんにお伝えしたいことがあるので、後ほどお電話します」という、見知らぬ発信者のメールを読み、虎太郎は西川の携帯を鳴らしてみた。留学中の学校情報や事務手続きの話なら、まず、彼女から連絡があるはずだ。
しかし、呼び出し音はなく、番号の解約を告げるアナウンスが流れた。
予期せぬ事態に虎太郎の胸はざわついたが、ルームメイトとショッピングに行く約束があったので、いても立ってもいられない気持ちのまま、レンタカーの中で留学サービス機関からの着信を待った。
電話があったのは、帰宅してしばらく経ってからだ。
「実は、西川メグミが不慮の事故で亡くなりまして……」
同僚のカウンセラーと名乗る男は、くぐもった声でそう切り出した。地球の裏側にでもいる感じの聞き取りづらい音声は、事実を伝える言葉を見つけるのに腐心していた。
「自動車の事故に巻き込まれ……四月九日の朝でした」
男は途切れがちな話し方で告げ、報告遅れの非礼を詫びてから、多少明るさを取り戻した調子で、「ネットでも大きく報道されたニュースですから、アメリカにいる古賀さんもご存知ではありませんか?」と言った。
頭の中が白くなり、虎太郎は携帯を持つのと反対の手で髪を掻き上げた。シャワーを浴びたばかりの毛が掌を濡らし、肩口に一滴の水が垂れ落ちる。
言われてみれば、ヤフーニュースで見かけた気もする。
けれども、遠く離れた[島国の出来事]を軽く流してしまうのが渡米してからの日常で、ディベートの模擬練習や授業のレポート作成の方が虎太郎には憂慮すべきトピックスだった。
事故直後に連絡しなかったことを繰り返し謝る相手に、とりあえず、「気にしないでください」とだけ応えた。
留学後は、エージェントのケアをあまり期待できしないことを、留学リピーターの虎太郎は熟知している。それでも、西川メグミと頻繁にコミュニケーションを取っていたのは、カウンセラーとクライアントの関係を越えた「母と子」に似た結びつきがあったからだ。
彼女の突然の死に気づかなかったこと。葬儀にさえ出られなかったこと――動転した気持ちが過ぎた時間をザッピングし、通話の内容を察したルームメイトが部屋を出ていくと、虎太郎は体から血の気が引くのを感じた。
デスクには、和英辞典と英和辞典が並び、その横に複数の分厚いテキストが英字を背にして置かれている。
ふと、壁に貼ったメッセージカードが虎太郎の目に留まる。
四年前の高校留学時に、西川メグミがエアメールで送ってきたものだ。
向日葵の写真の横に、筆記体で[for you]とあり、カードの中央に[じやすたりたでい]と大きく書かれている。そして、「留学中のおまじない」という文字が並んで記され、その八文字の平仮名を説明している。
「外国でのつらいことなんか、トラちゃんの長い人生の中ではたいしたことないのよ。いつだって、Just a little day。ほんの小さな一日だからね」
西川メグミの声が聞こえた気がした。
(2/8へ続く)
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