STORY1 鹿沼土(8/8)
「本当に痛ましい事故でした」
視線を落として、廣田が言った。
私は頷くことさえできず、ただ、次の言葉をじっと待つ。鼓動が強まり、顔の火照りを感じる。
「…実は、わたしは相沢さんと牧原さん夫婦のご関係を詳しく聞いていません」
少しだけ前のめりの姿勢になって、相手は続けた。
それから、テーブルに片肘をつき、顎を2本の指で前後に撫でながら、私の受け答えを望む感じで口を閉じた。
瞳に嘘の色はなかった。
「私は、亡くなった牧原賢治郎さんの仕事の後輩で、奥様にはお会いしたことがありません」
過剰に説明することなく、背筋を伸ばして、それだけ答えた。意思とは裏腹に、声がかすれてしまう。
「会ったことがない」というのは偽りだった。私はあの人の奥さんを葬儀で見ている。
噛み締めた唇。泣き腫らした目。憔悴しきった頬。
廣田は、私の返事を肯定する仕草で顎を引き、アイスコーヒーに口をつけた。
オーケストラのBGMが聴き覚えのあるピアノソナタに変わり、アダージョの旋律が流れる。
ビジネススーツの集団が階段を上がっていき、その中の大きな背中がマキケンの後ろ姿に見えた。
「…ミホさんのミホって、どういう字ですか?」
急に気になったことを、私は脈絡もなく尋ねた。タンポポの綿毛を相手に吹きかけるみたいに。
ほんの一瞬、廣田は驚いた目をして、「美しいに、ホケンの保」と答えた後、昔を懐かしむように、高校時代のニックネームが「マッキー」だったと加えた。
「マッキーですか?」
それは、[美保]という音と何の繋がりもない。
「ええ…マキハラですから」
廣田は、さも当然と言ったふうにアイスコーヒーを飲みかけると、言葉を失くした私に気づき、ストローから指を離した。
そうだったんだ…あの人は、婿養子だったんだ…。[マキケン]のマキは奥さんの苗字で、結婚後の愛称だったのか。
私は、彼のことを、本当は何も知らなかった。知るのが怖くて、耳を塞いでいた。普段の生活のこと、これまでの人生のこと。そういう話は、一緒にいる時間が積み重なることで、川の流れが少しずつ石を削るみたいに、だんだん受け入れられるものと思っていた。
だから、もっともっと、時間が欲しかった。
あの日の朝に止まった時計は、彼の存在を、交差点ですれ違うだけの人に変えてしまった。
喉元を締めつけられる苦しさで、私はグラスの水を飲む。
溶けかかった氷が意思のある生き物になって液体の奥へ逃げていく。
廣田は何も言わず、両手の指を互い違いに絡ませて、テーブルに乗せた。部活動の名残か、人差し指と中指の関節が節くれだっている。
顔を上げると、こちらを憐れむ眼差しがあった。もう、私がどういう立場の女なのかを気づいていた。
「相沢さん…今日のわたしは弁護士ではなく、あくまでも、同級生の使いです」
会話の行き詰まりを避ける口調で言うと、椅子に置いていた鞄から茶封筒を取り出した。
ひとつひとつの動作に誤解がないよう、慎重に、慌てず、私に集中してくれている。
「賢治郎さんの財布に、これが入っていたそうです」
千羽鶴用の小さな折り紙に似た、黄色い、正方形の付箋。
真ん中の折り目に位置を重ねて、[MIKI 鹿沼土]と書かれていた。万年筆のブルーブラックがまだ元の色のまま。
MIKIは、私のことだろう。でも、その後の3つの漢字が読めない。あの人の性格そのままの、丸みがあってクセのない文字なのに、意味が分からなかった。
恐る恐る、私は廣田を見る。
「このカヌマツチというのは、園芸用の土で…栃木県の鹿沼市で取れるものだそうです」
知らないのはあなただけじゃなく、自分もだれかから聞いて知ったという穏やかな話し方で、廣田はそう告げた。
とっさに、その[だれか]が牧原美保だと、私は気づく。
グリーンカーテンだった。
混ぜるといい土を僕が用意してあげるよ。
ふいに涙があふれ、目の前の文字がぼやける。
まばたきをこらえ、天井に目線を移して、気持ちを少しずつ落ち着かせていく。
胸ポケットからタバコを取り出した廣田は、一服するジェスチャーを残して席を立った。
こみ上げるものが止まらず、私はハンカチに助けを求めてから、そのメッセージを両の掌で包む。
付箋の裏側には、ほんのわずかな粘着力が残っていた。
横尾さんたちと会ったのが、まだ昨日のように感じるのに、たった24時間前のことが昔見た夢に思えてしまう。
新宿のカフェでの時間…。
廣田一成という男がテレビの登場人物で、バラエティ番組のどっきり企画に引っかかったふうに、頭が深い靄に包まれている。
でも、すべてが紛れもない真実だった。
それを証明する、黄色い付箋と封筒の手紙。
…あの人の奥さんが同級生に託したのは、「MIKI 鹿沼土」だけじゃなかった。
それは、死んでしまった加害者の…事故を起こしたトラック運転手の妻が、遺族たちにあてた手紙だった。
新聞もテレビも週刊誌も報じることのない一通の手紙。
その女性も最愛の人を亡くしたのに、まるで自分自身が加害者のように、謝罪の言葉だけを便箋に連ねていた。
マキケンの奥さんは、そのコピーを私にくれたのだ。
なぜ?
人前で哀しむ権利のない私に…。
愛する人と不実を働いていた私に…。
夫の財布にあったメモで私の存在を知り、想像から確証にたどり着き、高校時代の知り合いに使いを頼むまでにとてつもない葛藤があったはず。この2か月間、ずっと。
秘密を持っていたあの人のことも、私のこともけして許していないだろう。罪の意識を抱えながらも、私が牧原美保という女性をライバルに感じていたように、お互いの存在を認め合えるわけがない。
それでも、付箋と手紙だけは分けてくれたのだ。
私は、人目を憚らずに泣いた。
仕事を辞めて、こうして平然と生きている自分。他人の目から逃げ続けている自分。
涙が止まらなかった。
そして、1メートルも離れていない真向かいの席で、同級生の廣田は、私のすべての告白を少しの言葉も挟まずに受け入れてくれた。
「マッキーはいいマネージャーでした。試合でヘマしても笑って励ましてくれました。誰でもどんなときでも過ちはあるからって…相沢さんの部屋に緑のカーテンが出来たら、わたしの携帯に写真を送ってくださいよ」
低気圧が遠のいて、去年と変わらない西陽が部屋の窓から差し込んでいる。
初夏の光を受けて、私は横尾さんと実家にメールを打ってみた。
「なんとか、元気にやっています」
これからホームセンターに行こうと思う。
ネットで調べたら、鹿沼土もちゃんと売っていた。その黄色い培養土は、袋の中ではそぼろのように固まっているけど、とても柔らかくて細かくて、たくさんの植物に栄養を与えていくらしい。
明日、プランナーに新しい緑の苗を植えよう。
留学を考えるのは、今年の夏が終わってから…グリーンカーテンの後でも遅くない。
おわり
(STORY2へ続く)
■連作「キミの短い命のことなど」
STORY1「鹿沼土」by T.KOTAK
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