STORY1 鹿沼土(7/8)
新宿駅東口から明治通りへ抜ける小路沿いのカフェで、私はヒロタと待ち合わせた。
平日の夕方だけど、雑居ビルの前で若者たちが集い、携帯電話を陳列させた電器量販店はセール期間中と見紛うくらい賑わっている。
人混みの中で、私はいつも「そこにいる」不思議を思う。
自分がいまこの世の中に存在していることの不思議…。
地方都市で生まれ、成人してから東京に来た私にとって、スクランブル交差点は遊園地のアトラクションのようだった。おそらく、すれ違う人とは一生に一度の出会い…電車を一本遅らせれば、たとえば、道路の反対側のあの外国人観光客を、あのサラリーマンを見かけることはなかった。彼らからすれば、私もそう…だから、横尾さんや仕事仲間、営業で出会った人は、前世で縁があったくらいにスペシャルな存在なんだと思う。
偶然に同じ時代に生まれ、奇跡的に同じ空間にいる不思議。
前に、マキケンの体にくっつきながら、私がそんな話をすると、「別れは辛いけど、明日も明後日も、新しい人に出会えると思えば仕事も楽しいね」と目を細めた。
なんだか、宿題を褒められた小学生の気分で、大きなぬいぐるみみたいな背中を後ろから抱きしめてみた。年甲斐もなく、無邪気に。温かくて、柔らかくて…うしろめたさは消えなかったけど、ベッドの上で私は充電する電化製品みたいになった。
入口近くの窓際席で、目印にしたFENDIのハンドバッグをテーブルに乗せて、ひと息つく。
ミネラルウォーターのグラスが丸い汗をかいている。
クラシック音楽が薄いボリュームで流れ、エプロンを着けたウエイターがカウンター席のそばでオーダーを待っていた。
店は2階のフロアもあり、マスターらしき蝶ネクタイの従業員がたて続けに会計をしている。
約束の時間になり、私の心臓は小動物さながらに動きを速めた。
そして、手持ち無沙汰に携帯の画面をタップしたとき、階段を降りてきた男がちょこんと頭を下げた。麻のジャケットにスカイブルーのシャツ。
「アイザワさんですね?」
電話と似た声。
私は反射的に立ち上がり、返事をする。
「ちょっと早く着いたので、上にいました」
男はそう言い、ヒロタと名乗った後で、ビジネス用途らしからぬカジュアルな鞄を窓側の席に置いて、ネクタイを正した。
それから、「2階が喫煙席なんですよ。時代と逆行したヘビースモーカーなもんで…」と、テーブル移動させた伝票を伏せ置く。
差し出してきた横書きの名刺は、弁護士事務所が個人経営であることと横浜市に所在していることを知らせている。
[廣田一成]という明朝体の下には、Issei Hirotaとあり、外国人の顧客を意識しているのか、住所もアルファベットを併記していた。
オールバックにした髪はかなり寂しく、頭のてっぺんに地肌が見える。長くしゃくれた顎も特徴的で、一見、肉食系のイメージだけど、垂れ下がった目と長い睫毛が人を安心させる愛らしさを持っていた。鋭角な輪郭を顔のパーツが中和して、私の持つ「弁護士のイメージ」からかけ離れているものの、スーツの襟元には、その職種を誇る向日葵のバッジが付いていた。
「…アイザワさん、たばこは吸いませんよね?」
ふいにそう尋ねた廣田は、私の「はい」を聞き取ると、自分の問いかけを恥ずかしむそぶりで頭を掻き、もう一方の手でウエイターを呼んだ。
私はアイスティーをオーダーして、4人掛けのテーブル席で、改めて相手と向き合う。
夏服を着た学生がガラス越しに行き交い、時計の短針が次の数字まで動けば、OLたちも帰路に向かう時間なのに、アスファルトに落ちるビルの影は午後の始まりみたいに鮮やかだった。
いつの間にか、太陽が雲間から顔を出している。
「呼び出すみたいなかたちですみません…わたしとマキハラミホは、高校の同級生でして」
電話での「わたくし」が「わたし」に変わった。
そして、ジャケットを脱いだ廣田は電話よりも早口で話し始め、飲み物にストローを差してから、私をじっと見つめた。
「たまたま1年前にフェイスブックで再会しましてね。それから、何度かやりとりしたんです」
いったん言葉を区切り、別のテーブル客をちらりと窺ってから、新しいおしぼりで口元を拭く。
私とマキケンが関係を持ったのも1年前だ。仕事の帰りに落ち合い、やはりこんなカフェで一緒の時間を過ごしたこともある。
「再会、ですか?」
こちらも何かを発するべきと思い、相手のセリフをそのまま投げ返した。
「あっ、元カレとかじゃないですよ。マキハラはバレーボール部のマネージャーで、わたしはただの補欠選手…」
廣田はまた頭を掻いて、目尻と口元を緩めた。若い頃の面影を垣間見せる感じの笑みは、弁護士という職業に似つかわしくない。
「実際に会ったのは、マキハラの旦那さんが亡くなってからで、まだ最近のことです」
耳たぶが一瞬で熱くなる。
飲み物を放置したまま、私は一語一句を逃さないよう、神経を聴覚に集中させた。
エアコンは、節電のためか、客の長居を防ぐためか、稼動が悪く、ブラウスの首元と下着のストラップに窮屈さを感じた。しかし、営業時代同様、私は上着を脱がず、相手に悪い印象を与えないことを心がける。
電話口では、マキハラミホさんと言ったのに、いまはマキハラミホになり、すぐにマキハラに変わったことが同級生の親密さを表していた。
どこまでの真実を知っているのだろう…私は逸る気持ちを抑え、グラスをそっと持ち上げて、渇いた喉を少しだけ潤した。
(8/8へ続く)
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