STORY1 鹿沼土(6/8)
[080]で始まる数字が着信音を鳴らした。
発信者の名前がなく、私はとまどう。アドレスに登録している人じゃない。
顧客だった保険契約者が知っているのは会社携帯の番号で、ひととおりの挨拶を済ませてから同僚に引き継いだので、電話があるはずなかった。
通話ボタンを押さず、画面を見つめる。
やがて、10秒ほどで留守録になり、その拍子に音が止まった。
メッセージを残すことを嫌ったのか、呼び出しの終わる寸前に切ったのかは分からない。
間違い電話だと信じて、私はサイトにもう一度向き合った。
留学についての検索結果が表示され、いちばんトップの[成功する留学]というテキストをタップする。
すると、また着信があった。
同じ番号。
暗闇でだれかに驚かされたみたいに、反射的に通話ボタンを押してしまう。
「アイザワ、ミキさんの、携帯でしょうか?」
事務口調の男の声。どこかに書かれたセリフを読む感じの発音だった。
私は「はい」と声を鎮めて様子を伺う。どくんどくんと胸が波打つ。
「突然の電話で誠に恐縮ですが、わたくし、ヒロタと申します」
過剰な丁寧語を遮るかたちで「セールスですか?」と問いただす。
ほんの1、2秒無言になり、相手は言葉を選んだ。
「いや、弁護士の者です。実は、マキハラケンジロウさんの件で、アイザワさんにお話したいことがございまして…」
完全恋愛なんてものは絵空事だった。
送別会の日以来、久しぶりに化粧ポーチを開け、血色の悪い肌にファンデーションをあてていくと、非日常の緊張感でこめかみがズキンとした。まさか、こんなかたちで外に出る機会が…他人と会う日が来るとは思わなかった。
梅雨入りしてから、晴れの日と低気圧の日が交互に続き、朝の気象予報は夕方から雨になると伝えている。明日の明け方まで、大きな雨雲が首都圏を覆うらしい。
ベランダに出ると、のっそりした外気が私を包んだ。気の早い雲が折り重なっていたので、下着とTシャツを室内で乾かすことにして、私は外出を急ぐ。天気図よりも急ぎ足で、雨粒が落ちてきそうな気配だった。
ヒロタと名乗る男は、自分は弁護士だが、マキハラさんに雇われているのではなく、ただの知り合いだと電話で言った。マキハラミホさんからあなたに預かりものがあって、それを渡したいので、「近いうちにお会いしたい」と。
…あの人の奥さんの名前を初めて知った。
葬儀の挨拶状を開けなかった私は、喪主の名前を知るよしがなかった。存在を認めたくなかった。あの人からは子供がいないことを聞いていただけで、結婚相手の年齢や職業もまるで尋ねなかった。
ヒロタは、さも、私とマキハラミホが昔からの知り合いで、喧嘩別れした者を仲介する感じの話し方だった。自動音声ふうのイントネーションが気味悪く、きっと、身分を証明するために、弁護士という職業を明らかにしたのだろう。でも、それがかえって私に警戒心を与え、悪い想像を掻き立てた。たとえば、会計士とか歯科医とか…男女関係に結び付かない仕事だったら、受け止め方も違ったはず。
「預かりものがある」というのは、私を引っ張り出す口実?
私たちの関係をどこまで知っているのだろう?
いま頃になって、なぜ?
しかし、一方的に非のある私は質問する余裕がなく、日本語を覚えたての幼児みたいに「はい」や「ええ」を繰り返すのがやっとだった。
少しの沈黙の後で、「お会いするのは、わたくしヒロタだけですから」と声を低めて面会をせがんできた。
断る理由が思いつかずに「分かりました」と小さく答えた。見知らぬ者に従い、胸にぶら下がった錘を何とかしたいという気持ちもあった。
「アイザワさんの携帯のアドレスを、わたくしたちは知っていますので、お会いする日時はメールでやりとりしましょう」
「わたくしたちは知っています」――それは、罪状を突き付けるメッセージだった。
あの人の奥さんは、夫の遺した携帯電話を見ていた。当然のことだった。
私は電話を切った後で、送受信したメールの文面をつぶさにチェックする。
確証となるものはなかったものの、私たちが密会していた事実を第三者が知り得るやりとりはいくつかあった。
あの人がいなくなってしまったことで、完全恋愛はあっけなく崩れていたのだ。
(7/8へ続く)
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