STORY1 鹿沼土(5/8)
今日で60日。
あのバス停でたくさんの命が奪われたのに、世の中は何も変わることなく、カレンダーを早送りするように朝が来る。
時間は人をけして癒さない。私はそう思う。
むしろ、素知らぬ顔で動き続ける時計が哀しみを深めるばかり。
カーテンを開けて、外の陽を入れると、気分転換につけたペディキュアが光を嫌って色を薄めた。パジャマ替わりのジャージの裾が破れ、繊維がほつれ出ている。
しばらくの間、無職で過ごすだけの貯金はあった。退職金もわずかだけど、月末に振り込まれるらしい。
みんなはもうとっくに出社して、営業に出ている頃だろう。
だれかと会う予定もなく、私はインスタントコーヒーと一緒にテレビを眺める。
ワイドショーでは、司会者とゲストが真新しい事件について語り合っていた。
「浮気する男にも責任があるんですよ」「被害者なはずの奥さんが加害者になってしまった」「こうした事件は男と女がいる限り、絶対になくなりませんね」
ローな気分でチャンネルを替えると、テレビショッピングが「いまがいちばんお買い得」というフレーズで、昨日も明日も変わらない「いまがいちばん」を連呼している。私の胸にぶら下がった錘と同じだ。「いまがいちばんの重さ」だと信じたいのに、それは明日も明後日も続いていく。
青空の下の葬儀で、あの人の奥さんは凛とした表情で唇を噛んでいた。泣き腫らした目。憔悴しきった頬。
私はお焼香の列に並び、祭壇の遺影と彼女を少しずつ見つめた。
順々に手を合わせる私たち会社の者に、ハンカチを鼻にあてながら、その人は小さく頭を下げ続けた。
そして、私に大きな穴が空いた。
大砲の玉が体の真ん中を突き抜け、心臓も胃も肺も全部吹き飛ばされたような…体のすべての神経をハサミでブッツリ切られたみたいな感覚。
遺族を乗せたバスが静かに発進していき、排気ガスの白煙が空気に溶けていくのを見て、抑えていたものが一気にせり上がった。
体に穴が空いたはずなのに、神経が断ち切れたはずなのに、胸のいちばん深いところにあった塊が舌先までやってきて、私の歯をガチガチ鳴らした。
けれど、横尾さんや同僚と肩を並べた私には、彼女たちと同じ量の哀しみ以外は許されないのだと悟った。牧原賢治郎のために、人前で余計な涙を流しちゃいけない、と。
明日の土曜日で事故から丸2か月。
…今日、私はふたつの行いを決めている。
軍手をつけた手で移植ごてを持ち、ポリ袋に土をつめていく――それがひとつめのこと。グリーンカーテンの後片付けだ。
マキケンが初めてこの部屋にやって来た日、彼は開口一番に「夏は西陽がきつそうだね」と言った。
マンションの5階で、西側にベランダを持つ間取りは、秋から春まで過ごしやすいけど、8月になると部屋の温度が上がって、クーラーの冷気がめいっぱい必要になる。引っ越してきて6年。それ以外は不満のない部屋で、夏の間さえ我慢すれば、西陽の強さは気にならなかった。
「グリーンカーテンを作るといい」
あの人はハンドタオルで汗を拭きながら、私にそう微笑んだ。
「グリーンカーテン?」
「ベランダで緑を育てるんだ。今年はもうギリギリだけど、ゴーヤーなんていいんじゃない?」
思ってもみない提案に耳を傾けて、私は待望の来客に冷たい麦茶を用意した。いつの間にか、敬語使いじゃなくなったのが嬉しかった。
それは6月の日曜日のこと――彼は営業の帰りにこの部屋を訪れ、なかなか脱がなかった夏もののスーツを、会話が弾み始めた頃にやっとハンガーにかけた。
私が南国の人っぽい顔だから、ゴーヤーなんて野菜を考えたのかな…最初は単純にそう思った。
奥さんと自宅で植物を育てているのかは怖くて最後まで聞けなかったけど、ガラスを覆う緑が部屋の温度を下げることを、マキケンは体験者の口ぶりで教えてくれた。
博識で、やわらかなしゃべり方で、一回り年上で、大きなぬいぐるみみたいな彼は、仕事の頼りになる先輩でもあり、父親に似た包容力も持っていた。
そして、その日の夕方、オレンジに色づいたカーテンの内側で、私たちは恋人同士になったのだった。
ショートパンツとTシャツの格好で、私は役目を終えた古い土を繰り返し掬っていく。晴れの日が続いたため、表面は渇いているものの、容器の底に近づくにつれ、ずしりとした重みが伝わってきた。
初夏の太陽はまだ東側にあり、ビルの陰からベランダに差し込む光が程よい加減なのに、ちょっとした肉体労働で額に汗がにじんでくる。
夏と秋の間に、すべての栄養分を植物に与えた培養土は、プランターの中で私の処分をずっと待っていた。
本当は、乾燥させた土を熱湯で殺菌して、今年のグリーンカーテン用に再利用すべきだけど、あの人がもう訪れないこの場所で新しい緑を育てるのは無理だった。
そう、1年前、私はノウハウを教えてもらいながら、グリーンカーテン作りにチャレンジした。毎日1・5リットルの水やりと防虫スプレーの散布…伸びていく蔓(つる)を手作業でネットに絡ませていくのは難しかったけど、私たちの深まりが緑の成長を促すようで楽しかった。
しかし、結局、実をつけることのなかったゴーヤーの蔓を秋の終わりに二人で外したときは、仕事で大きなミスをしたような失望感を覚えた。
「来年、もっと早い時期に植え付けすれば成功するよ。土はまた使えるからさ」
あの人は努めて明るい調子で言った。
それから、「来年はプランターを増やして朝顔も作ろう。混ぜるといい土を僕が用意してあげるよ」と続けた。
なのに、「来年」は永遠に葬られ…私はこうして、主のない土を処分している。
もし、あの朝、彼がバス停にいなければ、この痩せ細った土はポリ袋につめられることなく、次の植物のために生まれ変わっていたはずだ。念願のグリーンカーテンが私の部屋にかかったかもしれない。そんな小さな計画やささやかな希望さえも、一瞬の事故が消し去ってしまった。
空になったプランターをバスルームに運び、シャワーで汚れを洗い落とす。タワシに洗剤をつけて、縁にこびり付いた黒い塊をこすると、私たちの思い出のかけらは薄茶色の液体になって瞬く間に流れていった。
気持ちをなんとか前向きにして、洗面所の鏡の前で髪にブラシを通す。カラーを入れていない毛が3センチほど伸びて、ツートンの生え際がみすぼらしい。かたちの崩れたパーマは毛先にたくさんの枝毛も作っていた。
それでも、今日やるはずのふたつめを実行するため、私はウエストの緩んだジーンズに穿き替える。
久しぶりの外出。体重の減りを取り戻そうと、コンビニでおにぎり2個とサラダを買い、昔ハマったスナック菓子にも手を伸ばして、駅前のブックオフに向かった。
目当ての本は、前にチェックしていたとおり、同じ棚に同じ値段で売られている。
[働く女性のカンタン留学]
著者の女性は、業界で名前の知られた留学カウンセラーらしく、マダム然としたプロフィール写真が印象的だった。見知らぬ土地に行きたい気持ちに留学という体裁を張り付けただけだけど、送別会の席でみんなに尋ねられ、本気で考えるのも悪くないと思い直した。
あの人との関係を秘密にしていた償いに、ひとつくらいは真実を作るべき…それがせめて、仕事を放り捨ててしまった者の義務だろう。
自宅に帰り、外が暗くなるまでに読むことができた。書き手の西川メグミという女性は、不登校児の海外留学も手がけ、カリスマカウンセラーと呼ばれるだけあって、留学事業のオーソリティな感じだった。
「生活と仕事に行き詰まったあなたが、もし環境を変えたいなら、海外の学校に飛び込めばいい」
巻頭のメッセージが、私に刺さった。1か月の短期留学なら費用もそれほどじゃないし、やみくもに海外の街を歩くより、英語漬けで頭を疲れさせた方がいい。
「あなたの明日をお手伝いします」とメッセージされたフリーダイヤルを携帯のアドレス帳に登録し、もう少しだけ情報を集めるため、画面をWEBサイトの閲覧に切り替えて、検索窓に[短期留学]と入れてみる。
と、そのとき。
(6/8へ続く)
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