STORY1 鹿沼土(4/8)
4月9日、朝6時45分。
横転したトラックがバス停にいた4人の男女を巻き込んだ。運転していた男も死亡。
やがて、運送会社の社長が辞任すると、報道は申し合わせたようにプツリと止んだ。
それだけの事実。
世の中では、もう賞味期限切れの事件なのに、私は昨日と同じことを考えてしまう。
53日前に起こった事故を、その日の夕方、ニュースキャスターはどう伝えたのだろう。被害者の名前…あの人の顔は、画面にどんなふうに映し出されたのだろう。
私が最初の一報を聞いたのは、スターバックスで早めのランチを摂っているときだった。
電話してきた横尾さんが「社員が事故に遭ったから、とりあえず事務所に戻ってきなさい」と、平静を繕った声で言った。
テレビと部屋の電気を消し、読みかけの日誌を持ってベッドに戻る。
眠気はまるで訪れなかったけど、体を横たえると、胸の苦しさが次第に落ち着いていった。
枕元のライトを頼りに、私はページを開く。書かれているのは全部が終わった過去で、明日からの生活には関係ないこと――自分にそう言い聞かせるつもりで、文字の羅列を追う。
忘れられない行事も記されている。春のお花見だ。
遅れてやって来たあの人を、横尾さんは私の横に座らせ、「この人、マキケン。元自動車のディーラー。トップセールスマン!」と紹介した。
駆け込み一杯の缶ビールを飲み干した“マキケン”は、軽く会釈してから名刺を出して、鬼ごっこで捕まった子供みたいな目をした。
いかにもお酒が好きといった感じのお腹と大きなジャケットが新鮮だった。
女の園の営業所で、同じ会社の男性と知り合うのはめったになかったし、ちょっと前までつき合っていた男はひどく痩せていて、ジャケット姿を目にすることなく別れたからだ。「つき合っていた」と言っても、バレンタインデーの合コンで知り合い、暇潰し程度の気持ちでデートして、ホテルで寝ただけ。スゴロク形式の恋愛ゲームは、[体]と書かれたサイコロの目で次のマスに進めるのだと言ったふうに。けれども、男は次のサイコロを振らず、決められたルールのように離れていった。
30前の焦りがあったのはたしかだ。
学生時代の仲間から「結婚しました」のハガキとか家族写真の年賀状が届くたび、だれかと一緒になりたい思いが強まって、その頃は飲み会にちょくちょく顔を出していた。
一方で、「私は保険セールスのトップになればいいんだ」なんて強がりもあって、夜な夜な、空にしたチューハイの缶をゴミ箱に放り込む自分もいた。
でも、マキケンこと牧原賢治郎は、缶チューハイにならなかった。冷蔵庫の奥に保管される、大切な栄養ドリンクだった…。
お花見にはいまいちの天気だったけど、12人のセールスレディと男5人で盛り上がった宴会をリアルに覚えている。
飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎじゃなく、笑いの絶えないスマートな飲み会で、だれもが仕事の話を控えめにして、プライベートのぶっちゃけトークをした。
焼鳥を頬張りながら、マキケンは「沖縄生まれですか?」と、私に尋ねてきた。そんな問いかけに慣れっ子な私は、大学まで山梨にいたことと祖先を遡れば沖縄にたどり着くかもしれないことをまじめに答えた。すると彼は「静岡より山梨から見る富士山の方がボクは好きです」なんて言ってから、甲府の名産にまつわるウンチク話を披露した。
そんな出会いだった「牧原賢治郎」が、ちょうどひと回り上の干支で、私と同じ星座なことは後から知った。
太っている人は、実際の年齢よりたいてい老けて見えるけど、マキケンは30代の雰囲気で、年上と話している気がしなかった。左手の結婚指輪もまだ新しい感じで、敬語で話し続けることも私に年齢を勘違いさせた理由かもしれない。
感じのいい社員だな、と思った。こういう人がセールスマンなら、車でも保険でも売れるだろうな、と。
いつかどこかの飲み会でまた会ったら、いろんなことをこっちから尋ねてみようって思いながら、私は桜の花びらの付いたビニールシートをみんなと一緒に畳んだ。
ところが、その「いつかどこか」は、宴会の記憶が鮮やかなうちにやってきた。
ゴールデンウィークの1週間後――私は日誌をめくって、その日を呼び覚ます。
セールスレディの売上が目標に届かず、本部が[バディワーク]という新しい制度を作って、月に一度、本社から営業マンがヘルプに来ることになった。
それが、マキケンだった。
毎日ひとりずつ、営業所の私たちが彼と組むスタイルで、初日の月曜日は私が担当になった。
なかなか口説けないお客相手に、マキケンは滑らかなトークをした。まるで、その男性客とは私の方が初対面で、彼の方が馴染みのよう…たまにジョークを交えながら商品を説明していくスタイルは、聞いている私が契約したくなるくらい見事なものだった。
普段は電車か自転車の移動だけど、その日はマキケンが運転する社用車で都内を廻った。
1年前に書かれた日誌には、2人きりでランチした代官山のレストランの名前がしっかり記録されている。たしか、コースで1200円のイタリアンだったけど、料理の味より彼の喋りの方が濃い口で、薄暗い照明に反して、その声は途方もなく明るかった。
「保険商品はどこの会社も似たり寄ったりだから、お客さんはセールスマンの人間性で判断するもんですよ」
体と不釣り合いなサイズのエスプレッソを傾けて言ったマキケンのセリフが、日誌に丸写しされている。
私は、彼とずっと動けたらいいと思い、翌日にパートナーを組んだ同僚に胸のざわつきを覚えた。
そうして、それが嫉妬心だと分かったとき、自分の中でルール違反の想いが芽吹いていることに気づいた。
(5/8へ続く)
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