STORY1 鹿沼土(3/8)

入社以来続いた[1か月に最低1件]というハードル。年々厳しくなる数字のノルマ。

これまでも、何度か仕事を辞めようと思ったことがあった。でも、こんなにあっけなく辞めるとは思わなかった。

20代の半ばまでは[若さ]が武器になって、オフィス訪問の営業も苦じゃなかった。

生保レディの主戦場は企業の昼休み。毎日がアウェー。そこでたくさんの社員を捕まえて、セールストークするわけだけど、フロアですれ違う、別会社のライバルは年輩の人が多く、当時の私は若さに加えて、持って生まれた派手めな顔立ちのためか、お客さんたちから声をよくかけられた。サラリーマンは相手が若い女性というだけで、心のホックをほんの少し緩めてくれる。私が男だったら、やっぱりそう。社会に出たての初(うぶ)なセールスレディを贔屓(ひいき)するだろう。だから、その頃は、見積り作成や新商品の説明も楽しくて、生命保険のセールスを天職だなんて思ったりした。

もともとおしゃべりで、人見知りしないタイプだし、ある意味、自分に合った仕事だった。

それでも、何度か挫折があった。


最初は、3年目の冬。

ずっとコミュニケーションを続けていた契約者が突然解約を申し入れてきた時。理由は単純。別会社の若いセールスレディに負けたから。その人は一流企業の管理職で、ロマンスグレーのジェントルマンだったけど、ワケあって家族と別居していること、「ボクは昇進の途絶えた窓際社員」なんて打ち明け話までしてくれたのに…。


私は、ベッドの中で目をつむる。

今晩、久しぶりに仕事仲間に会い、所長に抱きしめられ、思いつきであの場所を訪れたことで、神経がすっかり昂ぶってしまう。

眠れない体を起こし、段ボール箱につめた営業日誌を取り出す。

年度毎の日誌が7冊。古いものは紙の色が変わっていて、ボールペンの文字だけが生々しい。

「休憩」ではなく、「完了」した仕事を、リビングの明かりの下で思い返していく。ヘッドホンを耳にあて、自分の昔の声を再生していくみたいに。


2008年の4月――横尾さんの営業所に異動した日は、文章が長い。

心機一転、仕事に対しての熱い決意が、罫線に沿ってびっしり書かれている。

それは二度目の挫折の時期…成績順調だった私に、だれかが悪意に満ちた噂を流した頃。

「アイザワミキは枕営業している」

パソコンで打たれた怪文書が営業所のファックスに流れ、内部でしか知り得ない顧客の名前も記されていた。

その契約者とは、たしかに一度だけ食事したけど、体を売り物にして契約を取った事実も、恋愛感情も一切なかった。

怪文書が上司の目に留まり、私は全ての契約者の担当を替えられ、見せしめの異動辞令を受けた。

もう、だれのことも信じられなかった。


けれども、新しい職場で母親みたいな横尾所長に巡り合い、心を前向きにしてくれる彼女のマネジメントもあって、なんとか、モチベーションを回復できたのだ。

そうして、気の合う同僚たちと3回目の花見をした時、あの人に出会った。

それが、いまから14か月前。

契約者の数が伸びず、プライベートでの出来事が営業日誌の文面に恨めしく顔を覗かせている。

前任の所長と違い、横尾さんは日誌の提出を強要しなかったので、いつのまにか、仕事の記録が日記みたいになっている。私はフェイスブックもツイッターもブログもしないから、パソコンには何も言葉を残していない。だから、この7年分の紙の束が、社会に出てからの私のすべてだった。

「知り合いが広がって、営業のツールになりますよ」と、後輩にフェイスブックを進められたこともあったけど、意固地な私は、足で稼ぐ営業を続けた。

それでなんとかノルマをこなしたものの、やがて、「若さ」が武器じゃなくなり、アナログなセールス方が先細りになっていった。


隣人の部屋から微かに漏れていたステレオの音が止み、リビングが静けさに包まれる。

もう深夜番組も終わりそうな時間だけど、日誌をテーブルの上に開いて、テレビを点けた。

この1週間、外の世界と私を繋ぐのはニュース番組だけ。

働いていた時には一度も見たことのない夕方のキャスターが、その日に起きた出来事を多少の感情を交えながら報道するのを、毎日ぼんやり眺めていた。

テレビの中に、あの人の遺したものが現れないか、事故の真相がもっと明らかにならないか…私はそんな淡い期待を持つようになっていた。

事件直後は新聞記事からも目を背けていたのに、少しの時間が経って、いまの私は“何か”がほしくてたまらない。



(4/8へ続く)

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